🌏sns投稿絵画の問題点🌏

売るわけでもなく、売名行為でもない。「いいね」の数が多くても少なても、気に留めない。
私・85歳がコラージュ形式の絵を投稿し始めたのが昨年3月中旬、以後10カ月間。
毎日欠かすことなく、四つのアカウントに「延べ4000枚超」の作品類を発表してきたが、ここいらで中止か、休止かと思案の最中である。
SNSというメディア自体がアマチュアの集合体でもあり、投稿者同士の自由な国際交流の場でもあるはずの発想なのだが、情報管理のテクノロジーツールが進化するにつれ、メディアサイドでのコントロールプログラミングが異常に突出してしまい、参加者の「囲い込み」が強くなってきたようだ。アルゴリズムの悪しき強制力である。

その結果、「誰も彼もが似たような類同的作品」の氾濫となり、しかも、それらの作品の多くが、既に50年〜100年前に発想され、流行したもののコピーである。
とても技巧上のテクニックは上手なのだが、残念ながら「現代性」に欠ける。
要するに「こじんまり」と纏まりすぎているため、革新的パワーの爆発力に乏しく、同時に破廉恥までのユーモアにも乏しい。辛口の極みを許していただければ「貧乏くさい」のだ。

小さなサイズのスマホ画面枠を破壊するかのような絵画の遠心力で見る人の想像力を掻き立てる刺激からも遠く、余白を残した求心的な作品に仕上げたものが多い。
さらに付け加えれば、ディジタルテクノロジーの進化で、液晶画面の鮮やかさ×艶やかさの魅力に富む手段に恵まれたにもかかわらず、それらが生かされておらず、それ故に、絵画や写真表現の中心的な対象である「人体と顔」ー絵画表現の中心課題でも、人間表象の斬新なアイデアが創造されていない。

とにかく、アートなり、芸術を目指すなら、人間の身体と顔の、ありとあらゆる多面性を表現の場に引き摺り出してくるべきであって、ルネサンス〜モダン〜コンテンポラリーと、天才画家たちの血の滲む努力は、「いかにして人体の美を旧来の形式から抜け出して、より今日的に表象し直すか」ーということの連続だったはずだ。
その努力と創造の継承の跡がSNSでは見えない。つまり、技巧テクニックよりも先にコンセプチュアルな思想が必要なのではないかーその思索的な深みにも届いていない。

さらに気になるのは、「色彩表現の稚拙さ」だ。折角、美しく、繊細な線で描かれながら、どのような配色で、どのような感情なり、情景を訴求したいのかーそのあたりの作画モチーフの掴めない絵が多すぎる。
たとえば「赤」の扱い方が、総じて良くない。色相と彩度の論理的思考に欠けるのか、その区別が出来ていないので、バーミリオン系の赤なのか、カドミューム・ライト系の赤なのか、そうした配色コンセプトプランが曖昧なため、ディジタルカラーの調整が上手くいっていないのだ。だから「巧さ」があっても「上手さの妙味」に乏しいのである。
赤と同じよなことは緑と青の区分け、明度上のグレースケールが慎重に整えられていない場合も多い。

なんだろ? マンガやアニメのイメージが過大なのか、線描による表現は見事なのに、人間性の鬼怒哀楽、欲望の愛憎、顔と身体の質感差、身体動作の意識的な誇張を通じての絵画表象の特性など、その配慮がなければイラストレーションでさえも、見る人の感覚と情感には訴求し得ないことを学ぶべきだと思う。

まだまだ、この他にも作画として成熟しなければならない問題は多いし、SNS主催者側でのサービスに未熟な点もあるが、列挙するだけでも大変なので、本日は要点のみに留める。

   コラージュにも奮闘する 白雲斎

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