精神分析とは何か⁉️

シェークスピアのハムレットは深刻な表情で自問する。「What am I ?」・私とは何だ?と。
聞かれたのが私なら即座に応えてあげましょう。「Nothing you are.」
そうです。何ものでもありません。
人は、何ものでも無いことで自分となるのです。「自分が何ものかであるとすれば、自分ではない何かを通じてなのであり、例えば母親である年長の女性に対して彼女の息子である意味での私となるわけです。」
あなたは、あなた自身では「あなたであることを証明できない」のであり、必ず、他者にょってはじめて「あなたであること」が明らかになるわけです。
もしも、他者の誰もが「あなたに気づかず、呼べど応えぬとき」、あなたは何ものでもないのであり、「鏡に映って見えたとしても」、それだけでは何の意味もないのです。

私とは一生涯、私が私であることが一瞬たりともありえない無意味であるーこれが、私で在るという存在の真実だと知ることで、はじめて、あなたは自分の意味を知ることになるのです。理屈っぽい話ですね。しかし、それが、人間というものを語り、知ることの意味なのですから、どうにもなりません。

人々が死を恐れるのは、死によって「あなはは、あなた以外の何ものでもなくなる」からなのです。
つまり、あなたはあなたでしかなくなり、あなたをあなただと教えてくれるものが何ひとつない次元へと送り出されてしまうことが分かるからなのです。
だから、人々は誰でも、わたしだけではわたしの無でしかないことを知っており、そのことを片時も忘れてはいないのですが、ただ「意識という厄介」が「とても大事なこと」を忘れさせているからなのです。
しかし「無意識」だけは絶対に憶えていて、あなたが忘れようとしても、断じて忘れさせてはくれないのです。

ここで、ようやく「精神分析の世界」に近づいてきます。無意識が見えてくることで、精神分析の戸口が開くのです。 
無意識とは「脳」の働きの全容を占めているものですが、その働きの、ほんの一部分しか「私の意識」には伝えてくれません。
しかし、私たちは「無意識の伝えること」を勘づいているのに、意識感覚として感受することは難しいのです。
厄介なことに、私たちは感じないように、意識化しないように、無意識の伝えることを「抑圧」という制御で抑え込み、意識は知らんぷりを極め込んでしまうのです。死のように怖いから抑圧するということもありますが、とても面白いのは「それを選べば得をすると無意識では気づきながら、意識的な行為では別の損する方の選択をしてしまう」のです。
従って、無意識では予め知っていたのですから、他人が当てて得をしてから「あれが当たると思っていたのに」などと悔しがることになります。
人間の習性として、積極的に勝ち続けるより、負けに耐えながら自分を慰める感情に浸ることを好みやすいようであり、勝つ確率の高い無意識に聞くよりも、あえて無意識の声に蓋をして、「見ざる、言わざる、聞かず」の習性に従いやすいようだ。

ただ、そうした抑圧的な習性それ自体さえも気にしないで生きてゆくのであれば、さほどの問題もないのだが、「抑圧したくないのに、抑圧せざるをえない葛藤」に悩み始めると、無用な神経症や鬱に陥りやすくなり、精神疾患に侵されてしまう。

精神分析学は、こうした理不尽な精神の矛盾や自分自身では解決できなくなる心の葛藤などの症状が、なぜ生まれるのか?
そうした精神病的疾患の発生過程に介在する無意識の在り方ー様態ーを研究する医学的手法なのだか、他方、医学的なアプローチとは別の哲学的な探究として、精神分析学と無意識は「人間性探究」にも応用されている。

隠された無意識の意味を明らかにして、目には見えない心の矛盾、葛藤、鬱などの症状を解いていく過程に介在する無意識を、どのように捉え、解釈し、あるいは目に見える形に取り出してくるか?

人は、言葉を使い、操り、逆に言葉に惑わされ、時には侵され、狂わされることもある存在であるが故に、無意識の意味を知らないかぎり、自分は正しい、間違ってはいないと(他者から見れば)独断に陥り、意識の表面に見える判断だけが正しいとも思い込んでしまう。

意識表面に見えるものなど、深層に秘められた無意識の、ほんの一部分にすぎない不確かな意味であることを、精神分析は教えてくれるのだと分かるとき、人は随分と賢くなることができると思いますよ。

     以上、老体を生きる 白雲斎



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