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2021年7月27日
東京オリンピック開催の最中、母は亡くなった。
80歳だった。

かつて私は、母が大嫌いだった。
虐待されていたとかじゃない。
むしろ過保護なくらいに、愛情を注がれてた。
私のことを周囲に自慢していたし、帰省するといつも喜んで迎えてくれた。
資産家の娘ではないにしろ、いわゆる恵まれた家庭に育ったんだと思う。
そんな人が「母が嫌い」なんていうのはなんだか申し訳なく、
公には綴ってこなかった感情だけど、
もう故人になったし、初七日もとっくに済んだし、お盆真っ只中だし、
私のマイルストーンがてら、ちょっと言葉にしてみることにした

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※写真は約45年前。左上から母、私、父。前列は叔母、従姉妹、祖母

依存する人

母は、いつも、誰に対しても、愛情の見返りを求めていた
「こんなにしてあげてるのに」
「私はこんなに我慢してるのに」
おそらく自分を認めてほしかったんだと思う。
寂しさもベースにあったと思う。

「私を愛して!」そんな叫びにも似た、
ねちっこくまとわりつくように、喜怒哀楽を表現する人だった。

そのせいで小学校低学年の頃から、父や親戚の愚痴はよく聞かされていた。
最初は「ああ、おかあさん、とってもかわいそうだな」なんて思って、
一緒に泣いたりもした。

母にすれば当時唯一、自分の話を反論ひとつせずきいてくれて、
ともに涙を流してくれる存在。
しかも最愛の娘。吐き出してスッキリする相手として、
ちょうどよかったんだと思う。

だけど私も歳を重ねるに連れ、そんな母の言動に嫌気がさしてきた。

「ついさっきまで、あの親戚のおばさんと、あんなに仲良く笑ってたのに」
「お父さんの前では、そんなこと言わなかったのに」

大人にとってはよくある“建前”も、まだ小学生くらいの子どもには、
なかなか理解に苦しむ感情の使い分け。
しかも基本的にはきさくで明るく、さばさばした“ふるまい”をする母。
母に対して闊達な印象を持っていた人も、少なくないと思う。

でも家庭内で、自分が愛情を感じないとぐっとダウントレンドになる母。
呼び出されるのは、きまって父のいない時だった。
「ひろみ…?ちょっといい?」と深刻そうな顔と、湿った声色で私を呼ぶ。
その度に、ギクッと背筋が凍った気がした。

「そんなに嫌なら、“してあげる”のを、やめればいいのに」
「そんなに辛いなら、自分で行動すればいいのに」

そう思うようになっていた。
母とふたりきりになりたくない、早く家を出たい。恐怖にも似た感情が芽生えていた。

ーー

それとは真反対の父。父は私に、母の悪口を一切言わなかった。
いつも家では黙って、本か新聞化、TVで野球中継かニュースをみていた。

母に嫌悪感が増すのと比例するように、父に対して大きくなる尊敬の念。
父は営業職で、会社の役員で、父を慕う人もたくさんいた。
それなのに、なぜ母はこうなんだ。

私が母に心を開かなくなっていけばいくほど、
母は私の中に入ってこようとした。
「ひろみ、ちょっとそこに座りなさい」
その言葉から始まり、気持ちを打ち明けるまで一時間ほど解放されない。

わかり合おうとしているようで、自分の意見を押し付けてくる。
父ではなく、自分が正しいと主張する。
「あんたがみてないところで、お父さんは〇〇なことをする人なのよ」

いま思えばそれは、自分を愛してほしかったんだと、
娘から母として慕われたかったんだと思う。
残念ながらその願いとは相反するように、私の心は離れていったけど。

人は「愛して!!」っていうと、逆に愛してもらえないんだなーと
思春期ながらに感じた。

依存し、愛情を求める母。
依存せず、反論もせず、ただ家族のために稼いでくる父。

私の中で芽生えた「依存する人」への嫌悪感と、「自立した人」への憧れは
この頃の感情がベースになっているように、今となっては思う。


励ます人

私に愛情を注ぎ、同時に愛情の見返りを激しく求める一方で、
私が大阪の四大に受かったことを手放しで喜んでくれ、
即答で「行きなさい」といってくれたのも母だった。
当時福岡に実家があったにも関わらず、だ。
むしろ渋ったのは父のほうだった。

私の地元は、当時(も今も、かな)まだまだ
「女の子は実家から通える短大にいくのが当たり前」な思想が根強く、
家を出て、他府県の四大に通わせるなんて、かなりのレアケースだった。

母が送り出してくれたのは、私への愛情があってこそだろうけど、
自分の娘がこの田舎町から大阪の四大にいくことを
自己肯定感のひとつに感じていたのかもしれない。

周囲からも
「お母さんはよく一人娘を送り出してくれたね、偉いお母さんだね」
と頻繁に称賛された。その言葉を伝えると母は
「これからの時代はね、女でも稼げるようにならないけんのよ!」
と鼻息荒めに言っていた。よほど嬉しかったのだろう。

時には
「よくもまあ、ひとり娘さんを外に出したねえ、心配じゃないの?」と
嫌味めいたこともよく言われたそうだが、その言葉に反論するように、
「あんたはしっかり仕事してきなさいよ!」
よくそういってよく私を励ましてくれた。

しっかり仕事しなさい、は
母が元気な頃の口ぐせだった。

母から独立したい気持ちと、母の口癖。
このふたつの要素が、私の生き方に大きく影響を与えた気がしてならない。


口撃する人

大学に送り出してくれたとはいえ、
母の屈折した愛情表現が治ったわけじゃなかった。

大学で一人暮らししてても、しょっちゅう電話がかかってくる。
電話に出られなかったり、自分が愛情を感じないと激昂する。
超絶不機嫌になる。

それは大学をでて就職しても変わらなかったし、
一度目の結婚相手に対しても同じだった。
自分がおざなりにされたと感じたのか、
「〇〇さん(当時の旦那の名前)、そこに座りなさい」といって、
自分の主張を元旦那にぶつけ始めたときはマジでひいた。

私が母に
「もし私がお姑さんにそんな言われ方をしたら、あなたはどう思うのか?」
と問うても、そんなことは関係ない、とまるで話が噛み合わなかった。

周囲の親族にも、しょっちゅう彼女なりの主張をぶつけていた。
まさしく口撃。自分の正しさを主張しない日はなかった母。

そんな母も60歳を超えたあたりから、持病をかかえるようになった。
肺の病気だった。非定型抗酸菌症。それまで聞いたこともない病名。
その後、膠原病も患い、難病指定を受け、
晩年はほぼベッドの上で過ごすようになった。

「なんのために生きとるんかねえ」
「天井ばかりみてて、毎日生きとるんよ」
「支え続けて、働き続けて、私は体壊したんよ。
なのにお父さんはみんなから慕われて、尊敬されて…私だけ…」

恨み節、妬み、ボヤキ、どうしようもない嘆きを
ぶつけてくるようになった。

いろいろと励ましてみる材料を送り続けてはみた。
記念日ごとの贈り物、毎週欠かさない電話、年末年始は必ず帰省。
寝て過ごす日々を楽しくできるよう、本やCDを送ったりもいろいろしてみた

でも母の口撃は止まらなかった。家を出ても止まらない母の“攻撃”。
人に尽くしてこうなった自分が、生きていてどうなるのか。
そんなぼやきを娘にぶつけて、娘が悲しい顔をすることくらいが、
母が自分の存在意義を確認できる瞬間だったのかもしれない。

私はいつ、母から解放されるんだろう。
そんなことを結構大人になってからも思っていた。
「病気の母親に対して、なんてひどいことを思う娘なんだ!!」
そんな風に思われる方もいるだろう。いや、実際自分でもそう思う。

だけど事実として、母が死んだ世界を何度も想像した。
きっと私は母が死んでも泣かないだろう、とさえ思ったこともあった。


変わった人

結局亡くなるまで約20年程は闘病生活だったけれど、
3年ほど前に、大阪にある老人用施設に迎え入れてからは
老化の影響もあり、とても穏やかになった。

美味しいね、ありがとう、くらいしか言わなくなった。
ぼやきも、他人への口撃もいっさいなくなった。
あんなに嫌いだった母が、むしろ父より愛おしく感じることもふえた。
赤子のように、私の姿を目で追いながらにこっと微笑むだけの母。

人って晩年はホントに子どもへと戻るんだな、そう思った。
ここ3年はかつて嫌っていた時間を補うように、
母へ愛情を注いだ時間だった。

母が最期を迎えるまでの2週間ほどは、施設と自宅をいったりきたり。
この時ほど、リモートワークできる環境整えててよかったと思ったことはない。

最期の瞬間、私は母の目の前にいた。
直前まで外出していて、ギリギリ間に合った格好だったが、
どうにか最期の一呼吸を見届けることができた。

人は死ぬ時、大きな一呼吸をする。
祖母や叔母の死にも立ち会っていたから知っていた。
私は母のその大きな一呼吸を、母の顔、真正面で見届けた。

かつてあんなに渇望した母のいない現実。
それがいま、目の前にあった。
泣かないだろう、と思っていた母の死。
だけど、実際は泣いた。めちゃくちゃ泣いた。

とても嫌いで、でも愛してくれて、
応えても応えても、満足してくれなかった母。
仕事すれば、母から離れられる。
仕事すれば、母も喜んでくれる。
私が仕事すれば、私が自立すれば。

母はかわらないけど、自分が変われば、きっと今は変えられる。

そんな思いで仕事してきて、母と出逢って47年目に出た涙。
後悔の涙でも、悲しみの涙でも、歓喜の涙でもない。
なんだろう、言葉にできない涙。
いうなれば安堵、が一番近い気がする。

母を嫌いな娘、という自分の中にあった罪悪感が消えた安堵。
母自身が寝たきりの生活や苦しみから、ようやく“自由に”解放された安堵。
母が「大好きな母」に変わってから旅だってくれたことへの安堵。
いろんなことに安堵した。

変わらない私

私は47歳で、80歳になる母を看取った。
母がいまの私と同じ年の頃、つまり40代後半あたりって、
そうか、私が母をMAXに嫌っていた頃だな、と思いつつ、
当時の母と、いまの自分を重ねてみて気づいたことがある。

それは、私と母はおそろしいほど似ているな、ということだ。

「私を愛して!」的な、愛情の枯渇は正直あんまり感じてないんだけど、
喜怒哀楽はかなりはげしいほうだ。

夫からは、自分を押し付けてくると言われる。
自分が正しいと主張する、と。
なんだそれ、母そのものじゃないかとさえ思う。

ただ今回、母を看取って思ったのは、きっと私も最後まで「立派な母」になんてなれないまま死ぬんだろうな、ということだ。
そもそも目指してなかったけど、もう完全にその前提でいいな、と思った。

ただ開き直ってはい終わり、という意味ではない。
「母もそうだったから、私も最愛の息子を攻撃するのは仕方ない、
これは遺伝だ!」
なんて思っているわけでもない。決して、断じて、ない。

だけどなんというか、そもそも私も大した人間じゃないんだよ、
くらいでいいな、ということをいいたいだけだ。
喜怒哀楽激しくて、自分の意思も主張も強い。私はそういう人なんだと。

そんな私が周囲の人たちとどう関わっていくのか、どんな風に幸せを見いだせるのか、日々模索しながら過ごしていくしかないんだろうなと。

月並みな言い方でいうとこれが「自分を受け入れる」ってことなのかな、とも。

「自分を受け入れる」ってよく聞く言葉だし、なんというか綺麗事だよなあ、とイマイチ腹落ちしてなかった言葉だけど、ああなるほど、自分を受け入れて生きていくと楽になるのかもなあ、と母の死を経てつくづく思う。

もちろん自分は変われる。
いま生きているコミュニティや、仕事や、学びを通じて。

だけど変われない一部の自分や、ダメな自分を責めすぎず、
ほどほどに受け入れながら、ラクに、楽しく、生きていったもん勝ちなんだろうなと思う。

それはかつて、自己肯定感を求めてもがき、苦しみ、そして晩年、
老いの力を借りて、ようやく安らかになれた母の生き様をみてきて思う。

不器用で、寂しがりやで、そして誰よりも愛情深かった母。
彼女が自らの人生をかけて、私に与えてくれたすべてのことがらへ、
最大級の感謝を贈りたい。

2021年8月14日
愛する母へ 娘・裕美 著


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