【オリジナル小説】令和な日々
令和2年2月15日(土)「忍び寄る恐怖」日々木陽稲
バレンタインデーから一夜が明け、わたしは可恋のベッドで目を覚ました。
朝の6時。
顔を上げて辺りを見回すが、可恋の姿はない。
心地良すぎるベッドから抜け出して広々としたリビングに行くと、可恋はウォーミングウェアを着て身体を動かしていた。
わたしが「おはよう」と声を掛けると、可恋も「おはよう」と挨拶を返す。
空手道場での朝稽古の時間だが、体調が回復しても当面はお休みするらしい。
代わりに今日はわたしの朝のジョギングに付き合ってくれるという。
わたしは待たせては悪いと急いで顔を洗い支度を始める。
準備しながら思い返すのは昨夜の出来事だ。
翔ちゃんの件が一段落してから、わたしは可恋と自宅に帰った。
当初の予定ではすぐに可恋の家に向かうことになっていたが、時間が押していたので予定を変更してわたしの家で夕食を摂ることになった。
お父さんが頑張って二人分多く調理してくれている間、可恋にはわたしの部屋で待ってもらい、わたしはお姉ちゃんに髪を結ってもらっていた。
バレンタインデーの衣装は悩みに悩んだ末、自分をチョコレートに見立てるものにした。
少しオレンジがかった褐色のドレスに、鮮やかな赤のリボンをコーデしてプレゼントっぽさを演出した。
胸元には大きなハート形のブローチをあしらい、全体としては上品に仕上がった。
しかし、インパクトに欠けたので不満は残った。
もっとインパクトを重視して金ピカのドレスも考えていたのに、それで夜道を歩くのはどうかとお姉ちゃんに諫められた。
可恋はわたしの服装を見て、可愛いと褒めてくれた。
だが、その目には無難でホッとしたという安堵感が漂っていた。
わたし、お姉ちゃん、お母さん、可恋の4人からチョコレートを贈られたお父さんに送ってもらい、わたしは可恋と彼女のマンションに向かった。
二泊の予定だからわたしの鞄は服で膨れ上がり、お父さんに持ってもらって助かった。
可恋の自宅に着いてから、わたしは可恋の似顔絵入り手作りビターチョコレートを渡した。
それに対し、可恋は海外から取り寄せた高級チョコレートを手渡してくれた。
ピアスを模していて、非常に手が込んでいる芸術的なものだ。
それだけでなく、可恋は3月の誕生石であるアクアマリンのイヤーカフもわたしにくれた。
「食べるのがもったいないけど、食べないともっともったいないからね。ちゃんと残るものがあれば食べられるかなって」
しかも、可恋はわざわざ真紅のドレスに着替えてそれらをプレゼントしてくれた。
完敗と言うほかない。
わたしを喜ばせようという気遣いに溢れていた。
可恋はわたしのチョコレートを喜んでくれたが、やはり釣り合いは必要だ。
来年のバレンタインデーは……、いや間もなく訪れるふたりの誕生日では可恋に負けないようにしないとと固く誓った。
外はひんやりとはするものの、真冬の凍えるような寒さではない。
自宅の前でお姉ちゃんや純ちゃんと合流し、いつもの公園へ行く。
わたしのジョギングのペースは相変わらず普通の人が早足で歩くくらいの速さなので、可恋は歩いてついて来た。
そんなスローペースでも少し走れば汗が出るくらいの暖かさだ。
暖冬で困る人もいるだろうが、可恋の体調を考えるとこのまま春になって欲しいと願ってしまう。
今日は晴れてかなり気温も上がるらしい。
出掛けるには最適の日和だ。
しかし、出掛ける予定はなかった。
昨夜、可恋は「いまは人混みは避けたいから」と理由を語った。
「無菌室に一生入っていたら長生きできるかしれない。だけど、そんなことは誰だって死ぬほど嫌でしょ?」と告げた可恋は「だからといって何のリスクも考えずに行動することはできない。特に、私は」と厳しい顔で言葉を続けた。
新型コロナウィルスの脅威が1ランク上がったそうだ。
可恋は自覚のない感染者が街中にいる可能性は高いと考えている。
「パンデミックが起きて、中国のように医療現場が人手不足物資不足になり患者の対応が十分にできなくなれば別よ。そうでなければ、現在の情報では若くて健康な人にとってはそれほど大きなリスクにはなってない」
可恋は”正しく怖がる”ことが大切だと説く。
「感染症はどれもそうだけど、自分のことだけ考えてはいけないの。インフルエンザは最近ようやく他人に移さない重要性が認識されてきたわ。麻疹はまだまだ認識不足かな」
可恋にとって感染症は命に関わる重大事だ。
それだけにこうした情報には非常に敏感だ。
「パンデミックを起こさないため、高齢者や持病のある人に移さないため、いかに社会で力を合わせていくかが問われていると思う」
わたしにとっても可恋の健康は切実な問題だ。
わたしの身近な人でいちばんリスクが高いのは間違いなく可恋だろう。
だから、わたしは「可恋がもし罹ったら?」と聞かずにはいられなかった。
可恋は肩をすくめ、「さあ。分からないわ」と言った。
実際に罹ってみなければ本当に分からないそうだ。
ただ持病がある以上、インフルエンザ同様他の人より危険だと正直に話してくれた。
「病気は――特に今回のような感染症は――高齢者などの弱者を淘汰させるために神が与えた試練なのかもしれない。それでも、そうした試練に抗ってきたのが人類の歴史だったりするわ」
神様にさえ平気でケンカを売りそうな表情で可恋は中空を睨みつけた。
そんな可恋を見ながら、わたしはこの目の前の少女を守ってくださいと神様に祈った。
世間的に見れば、わたしや可恋はいまの日本で恵まれた環境にいる。
それは可恋自身も認めている。
しかし、可恋は……。
可恋の壮絶な子ども時代の話を聞いて、誰が彼女を恵まれていると言えるだろう。
可恋や、可恋のお母さんの陽子先生が語った当時の思い出話は聞くたびに胸が痛くなった。
語ることができないような辛い体験もあったと思う。
いまだって、これほど体調管理に気を付けていても冬はまともに学校に行けない可恋だ。
人の何倍も努力して、人並み外れた中学生になっているが、それでも手に入らないものはある。
彼女は天才と呼ばれることを嫌う。
これまで多くのものを諦め、様々な犠牲の上に積み上げてきた自負があるからだろう。
いまのわたしは可恋の横で明るく振る舞うことしかできない。
暗く、深刻ぶったところで何の役にも立たない。
可恋も話している。
「感染予防は大切だけど、食事、睡眠、ストレスフリーを重視して心身を健康に保つことも感染症には有効なのよ。ストレスをゼロにすることは無理でも、少しでも減らす意識を忘れないようにしないとね」
わたしが可恋のストレスを増やしてはいけない。
わたしは笑顔の力を信じている。
明るく元気でいることがきっと可恋の力になるはずだ。
††††† 登場人物紹介 †††††
日々木陽稲・・・中学2年生。生まれつき天使や妖精のような美しい容姿を持ち、神様の寵愛を受けていると噂される。しかし、本人は外見より内面を見て欲しいと思っている。
日野可恋・・・中学2年生。頭脳明晰、学業優秀、運動神経も抜群。だが、生まれつき免疫力が極度に低い体質で何度も生死を彷徨うことになった。
* * *
ジョギングを終え可恋のマンションに戻り、陽子先生を交えて朝食を摂る。
超有名私大の教授である陽子先生も今回の新型ウイルスには頭を痛めていた。
「毒性の低さは人類にとって救いだけど、同時に封じ込める難しさにも繋がっているみたいね。ほとんど症状が出なかったり、出ても軽症だったりすると、普段通りに行動する人が多いから」
すでに関東や関西などの人口密集地では一定程度の感染者がいる前提で考えるべきだろうと先生は話す。
もう中国への渡航歴とは無関係に国内で増えていてもおかしくない。
陽子先生は医学の専門家ではないが、公衆衛生は研究分野と重なるところもあるそうだ。
「高齢者などの健康弱者だけでなく、経済的な弱者に皺寄せが行くことは歴史が証明していると言ってもいいくらいだわ」
「台風の時のように交通機関を止めれば感染拡大を防げるかもしれない。ただ1日2日じゃ効果が期待できないから難しいよね」と可恋は顔をしかめた。
可恋もNPOの勉強会や交流会を中止するという手は打っている。
その後始末があって、今日はあちこちに連絡を取らないといけないと話していた。
「インフルエンザと同じで、まき散らさないという当事者意識があるかどうかだね」
可恋によると、インフルエンザの流行によって直接的または間接的に生じた死亡の推計があって日本で年間約1万人だそうだ(註)。
日本の都市部は人口密度が高いので、人々の心がけ次第で大きく変わるのではと可恋は話す。
「自己責任なんて言葉が虚しくなるよ。意識の低い感染者がひとりいるだけで、周囲の人たちは防ぎようがなくなるのだから。家に引き籠もる以外に防衛策はないかもしれないね」
実際には先日家に引き籠もっていたのに可恋はインフルエンザに罹ってしまった。
それこそ他人とまったく会わない生活をする必要があるだろう。
わたしが不安を隠し切れないでいたら、可恋はわたしを見てニッコリと微笑んだ。
「これまでインフルエンザからは生還しているから。新型コロナも大丈夫だよ」
それが希望的観測に過ぎないことは分かっている。
でも、いまは可恋のそんな楽観的な言葉に縋るよりなかった。
賢くなること。
強くなること。
いまはまだ可恋の高みには遠く及ばない。
だけど、諦めたらそれで終わりだ。
可恋に負けないように一歩一歩、歩いて行くしかないのだから。
註:厚生労働省「新型インフルエンザに関するQ&A」https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou04/02.html#100
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