【オリジナル小説】令和な日々

令和2年3月21日(土)「花のある生活」久藤亜砂美


 私が近藤家に来て間もなく1ヶ月となる。
 行き場を失った私をこうして住まわせてくれたことに大変感謝している。

「少しは慣れた?」と近藤さんが声を掛けてきた。

 学校が休校になって以来、私はお祖母様から家事をするよう言いつけられている。
 家事の中でも一日の大半を占めているのが清掃だ。
 離婚後に母と暮らしていたボロアパートはもちろん、それ以前に住んでいた手狭な団地と比べてもこの家は非常に広い。
 平屋ではあるが使われていない部屋が多数ある。
 家の門と玄関の間の前庭だけでなく、物干し場を兼ねた庭もある。
 高齢のお祖母様ひとりではとても手が回らなかったようで、埃の積もった部屋が多く、庭も荒れて雑草が繁っていた。
 ようやくすべての部屋の掃除が終わり、庭もどうにか見られるまでになった。
 しかし、どんなに綺麗にしてもすぐに埃は溜まる。
 毎日毎日同じことの繰り返しが続き、虚しい気持ちを感じることもある。

 私は玄関の清掃の手を止めて、「そうですね」と応じる。
 先日近藤さんと近くのホームセンターに出掛け、掃除用品をいろいろと購入した。
 それ以来、雑巾掛けするように言われていた廊下はモップ掛けで良くなり、便利グッズのお蔭で清掃の手間がかなり省けるようになった。
 お祖母様はその様子を見て顔をしかめていたが、近藤さんが「学校が始まればこんなに時間を掛けることはできませんから」と言うと何も言わずに立ち去った。

 思えばボロアパートにいた頃は母も私もろくに掃除をしなかった。
 いや、家事全般をしなかったと言っていいかもしれない。
 食べ物は弁当を買ってきたり、カップ麺などで済ませたりしていた。
 洗濯はコインランドリー。
 ちゃんとやっていたのはゴミ出しくらいだ。
 母は離婚前からルーズだった。
 ボロアパートに来た当初は頑張ると言っていたのにすぐに前言を翻した。
 服は脱ぎっぱなしで食べたものも片付けない。
 それをだらしないと蔑んで見ていたが、この家に来て私自身が母と同類であることに気付かされた。

 料理なんて本当に基礎の基礎から教わっている。
 学校の家庭科の授業を真面目に受けていなかったから、包丁の持ち方や野菜の洗い方、ご飯の研ぎ方もよく分からなかった。
 お祖母様は呆れた顔はしていたが笑いはしなかった。
 最近ようやく味噌汁をひとりで作れるようになったが、味付けに関しては毎回ダメ出しされる。

「そんなに丁寧にやらなくても大丈夫よ」と私の働きぶりを見て近藤さんが言った。

「やり過ぎるとそれが基準になってあとが大変よ」と忠告されるが、どこまでやればいいかの加減は難しい。

 この家から出て行けと言われたらもう私には行く場所がない。
 母はボロアパートを引き払った。
 足手まといな娘が片付いて清々した表情だったと聞いている。
 あの女にとって私はそんな存在だったのだろう。
 携帯の番号は覚えているがいつまで繋がることか。

 あの女のようにはなりたくないとずっと思っていた。
 近藤さんに従って勉強を続けたのもそんな気持ちからだった。
 しかし、この家に来て分かったことがある。
 まともな暮らしを知らなければ、あの女のようになるだろうということを。

 お祖母様は厳しく、その言いつけ通りに家事を行うことは大変だ。
 手は荒れるし、腰は痛くなるし、筋肉痛にもなった。
 指示される前に動くように言われてもそんな風に頭が回らない。
 昼間は家事に追われ、夜は近藤さんから勉強を教わり、自分の時間が持てない。
 ほとんど独り暮らしに近い生活を送っていた私の環境は一変した。
 親友のハルカとゆっくり話す時間もない。

 それでもなんとか耐えているのは、いまが人生の大きな岐路だと思うからだ。
 あの女のようになるのかどうかの。

「お姉様は……」

 どうやって要領を身に付けたのか尋ねようとして思いとどまった。
 彼女は小学生の頃にこの家に引き取られた。
 そこで厳しい躾を受けたと聞いている。
 いまは勉強優先で家事を免除されているが、私が教わっていることは小学生時代に叩き込まれている。
 お祖母様は自分の孫娘に対しても一定の距離を取る人だ。
 私には近藤さんがいてかなり助けてもらっているが、彼女はひとりで生活の激変に耐えてきたのだろう。

 当時の嫌な思い出を刺激するかと思って口籠もったが、近藤さんは私の思いを察して「少しずつ自分なりに考えて効率化いくしかないわね」と教えてくれた。
 その声がわずかに冷たく感じたのは気のせいではないと思う。

 門扉が開く音がしたので、私は立ち上がり玄関の引き戸を開けた。
 外は初夏のように陽差しが強く、眩しくて左手を額に当てて庇を作る。
 和服姿のお祖母様が両手に荷物を抱えてちょうど門をくぐるところだった。
 私は急いで駆け寄り買い物籠を受け取る。
 近藤さんもすぐに出て来て、もうひとつの荷物を手に取った。
 それは美しい花々だった。

 この家に来てしばらくしてから気が付いた。
 居間や玄関に生花が飾られているということに。
 そういう家があることは知識としてはもちろん知っていた。
 しかし、自分のいる世界とは地続きではない遠い世界のことのように感じていた。

 私は買ったものの整理をお祖母様の指示で行ったあと、大きな花瓶の準備を命じられた。
 水を入れると両手で抱えなければ持てないような花瓶だ。
 それを奥の和室に運ぶ。
 お祖母様は使い込んだ花鋏を持ち、買ってきた花を剪定していた。

 畳の上に板が置かれ、その上に花瓶を置き、私はお祖母様の対面に正座する。
 正座はいまも苦手だが、少しは我慢できるようになってきた。
 家の中にある花瓶の水替えは私の毎朝の仕事だ。
 残念なことに、私が触れると花の見映えが悪くなる。
 元に戻そうと思えば思うほど変になってしまい、結局お祖母様の手を煩わせてしまう。

 人は日々生活を送っている。
 誰でも食事をするし睡眠をとる。
 そこにたいした違いなんてないと思っていた。
 だが、この家に来て生活の質の違いを身を以て知った。

 ハルカの家はごく普通の家庭という感じだったが、質の違いなんて気付かなかった。
 ハルカには失礼だがどこか普通ではないのだろう。
 自分が当たり前だと思っていたことがいかに狭い世界の常識だったのかと、私は毎日のように突きつけられている。

「昔は花を活けることは嗜みのひとつでした」

 興味深く花を活ける様子を見ていた私にお祖母様が語った。
 時代の変化に抗うように暮らすお祖母様だが、抗い切れないことを悟ったような声音だった。

「興味があるのなら、よく見ておきなさい」

 凛と背筋を伸ばし、お祖母様は花瓶に花を活けていく。
 その所作の美しさに引き込まれる。
 私は目の前の花の種類すらほとんど分からない。
 それを寂しく思う。
 この家での暮らしを辛く感じることはある。
 それでも。
 家の中に花が飾られている、そんな生活がしたい。
 私は強くそう思った。


††††† 登場人物紹介 †††††

久藤亜砂美・・・中学1年生。小学校の高学年の時に両親が離婚し母親に引き取られる。近藤家とは以前から交流があり、働きに出る間未来に面倒を見てもらうことになった。

近藤未来・・・中学3年生。小学校の低学年の時に両親が離婚。母親はすぐに再婚し子どもを設けた。未来は母親の両親に引き取られ現在に至る。

小西遥・・・中学1年生。亜砂美の親友。姉の恵ともども荒んだ生活をしている不良。

『令和な日々』は小説家になろう、カクヨム、pixivに重複投稿しています。