【オリジナル小説】令和な日々

令和2年6月20日(土)「朝練」日野可恋


 老若男女が道場内に密集する朝稽古への参加はいまも見合わせている。
 代わりにそのあと行われるキャシーの練習に参加するようになった。
 彼女の通うインターナショナルスクールは26日までオンライン授業のみなので、もうしばらくこの道場に住み込む予定だ。

 なぜかこの朝練に中高生も参加している。
 時差登校や分散登校で参加が可能な時に限りではあるが、今日は土曜日ということもあって結構な数の参加者がいた。
 不思議なことに私が指導役になっている。
 私より歳上もいるのに、である。

 私は朝稽古しか道場に来ないので、朝稽古の参加が認められていない人とは接点がほとんどない。
 そういう人たち――特に私と同世代の子と顔を合わせる機会を作ろうという師範代の思惑なのだろう。
 キャシーの相手をひとりでこなすよりはマシかと思い、一緒に練習に励んでいる。

「遅くなっちゃったけど、私たちも指導してもらってもいいかな?」

 練習が始まって少し経ったところで、空手着姿の女性がふたり道場にやって来た。
 私はすぐに練習を中断し、挨拶に駆け寄る。

「おはようございます。神瀬《こうのせ》さん」

 余裕の笑みを湛えているのは東京オリンピック日本代表に内定している神瀬舞さんだ。
 その横で目を輝かせているのは妹の神瀬結さん。

「もっと驚いて欲しかったなあ」と舞さんが笑う。

 あんな風にと言った先には目を見開いて驚いている中高生の面々と、『オー、マイ! ユイ!』と嬉しそうにはしゃいでいるキャシーの姿があった。
 連絡もなしに――当然師範代には連絡しているはずだが――訪れて、見学のみならず練習参加まで言われて驚かない訳がない。

「これでも驚いていますよ」と私は微笑み、「稽古をつけてもらえるんですか?」と期待した。

「言ったじゃない。可恋ちゃんに指導してもらいに来たって」と舞さんは笑って私の言葉を受け流す。

 私は苦笑いを浮かべて練習を再開した。
 駆けつけたばかりのふたりにはウォーミングアップをしてもらい、他のメンバーにはいつも通りにやってもらう。
 興奮するキャシーと固くなったほかの参加者を「いつも通り」にさせるのは骨が折れたが、「どんな時でも自分の力を発揮することが大事だからね!」と発破をかけ続けた。

 練習が軌道に乗ったところで舞さんにどんな課題に取り組んでいるのか質問する。
 代表レベルの選手の力になれるかどうかは分からないが、練習への意識の持ち方や取り組み方を聞くことはそれだけで大いに勉強になる。

 舞さんは具体的な形の動きをしてみせながらポイントを教えてくれた。
 90点の状態から100点を目指すのと99点のところから100点を目指すのとでは当然意識も違ってくる。
 細部のひとつひとつを意識しながら、それでいて全体のレベルを落とさず常に高いパフォーマンスを発揮する必要がある。
 特に舞さんはスクラップアンドビルドの考えがあり、身についたものを壊してでも恐れずに挑戦する強い気持ちが伝わってきた。

「私は微調整で誤魔化してしまいます。練習の量や質が足りませんから」と反省の弁を述べると、「タイプの違いだよ。私は細かいことが嫌いだからね」と舞さんは事もなげに言った。

 これまでも舞さん相手にトレーニング談義などを行ってきたが、さすがに空手の技術論は容易に口出しできない。
 なにせ相手は世界で一二を争うレベルなのだから。
 本来であればあと1ヶ月ほどで東京オリンピックが開催されるはずだった。
 いまは最後の追い込みとして練習に集中していた時期だろう。
 それが1年延期され、中止の可能性も取り沙汰されている。
 モチベーションの維持が大変だと思うし、あまり技術の枝葉末節にこだわっても仕方がない気がする。

 少しディスカッションをしたあと、模範演技が見たいと私は提案した。
 やはり間近で舞さんの演武が見たい。

「指導してもらう以上はやってみせないといけないか。ただし、可恋ちゃんもやってね」と舞さんはニコリと笑った。

 ご指名はあると予想していたので、私はすぐに頷いた。
 そこにタイミング良く師範代が戻ってきた。
 こういう流れになることを予想していたのだろう。

 キャシーたちの練習が終わり、彼女たちが見守る中で結さん、私、舞さんの順で演武を行うことが決まった。
 昨夏の全中2位の結さんは試合本番くらいの気合を込めている。
 今年春の選抜や今夏の全中は中止になった。
 その鬱憤をここで晴らそうとしているようだ。

 鬼気迫る一声と共に演武が始まった。
 幼い頃から空手を学んでいる結さんは完成度は元々高かった。
 だが、偉大な姉の存在が気になるのかこぢんまりとまとまっている印象があった。
 それが、がっしりした体格から生み出される攻撃には迫力があり、失敗を恐れない前向きさも感じられるようになった。
 明らかに一皮剥けたと言えるだろう。
 全中2位の実績が自信に繋がったのか、急速に成長している。
 これまで姉の舞さんとの違いを出そうとしてきたみたいだが、そんな雑念は消え去っている。
 自分の全力を出した結果がもっとも身近な存在である姉の演武に似てきたというのはとても腑に落ちることだった。

 やり切った感をいっぱいに顔に出して結さんは演武を終えた。
 見学者からは拍手が飛んだ。
 私の横で見守っていた舞さんも満足そうな表情だった。

 私は軽く息を吐いて、開始地点に立った。
 肩の力を抜き、リラックスを心がける。
 誰に見られているかは関係ない。
 ただ自分の望む動きをやり切るだけ。

 頭の中に思い描いた自分の動きと寸分違わず身体を動かしていく。
 手足の指先まで集中して神経を通わせる。
 どれだけ練習を重ねても理想通りにはできない。
 それほど人間の脳は万能ではなく、身体が身につけた動きなんてものも完璧ではない。
 それでも必死に制御し、可能な限り理想に近づけていく。

 夏になってコンディションが上がってきたとはいえ、終わった時はくたくただった。
 それを顔に出さないように気をつけながら一礼して師範代たちのところに戻る。

「素敵です!」と結さんが胸の前で指を組み、うっとりするように言った。

 私は汗で濡れた髪をかき上げ、「ありがとう」と微笑む。
 結さんは慌てた様子で私のタオルを取って来てくれた。
 私が「わざわざありがとう。お客さんなのに、ごめんね」と謝ると、「いえ、そんな……。日野さんのためなら、わたし、なんだってやりますから」と彼女はキラキラした眼差しをこちらに向けた。

 道場の中央へ視線を移すと、舞さんが静かな闘志を沸き立たせているところだった。
 先程までの笑顔は消え、集中力が高まっている。
 師範代の合図とともに、日本代表の演武が始まった。

 圧巻だった。

 今日のために調整してきたのではないかと思うほど研ぎ澄まされていた。
 相手がいることとはいえ、この演武なら金メダルは十分に獲れると思ってしまう。
 動きのしなやかさが際立ち、力強さも申し分ない。
 これ以上を目指すというのは人間業ではない。
 99.999から100点を目指すようなものだ。

「凄かったです。言葉も出ません」と戻って来た舞さんに私は声を掛ける。

「さすがに結や可恋ちゃんに負ける訳にはいかないからね」と舞さんは珍しく砕けた笑顔を見せた。

「これでコンディションはマックスじゃないんですか?」と質問すると、「いまからオリンピックをやってもいいくらいだよ」と舞さんは答えた。

「幸い空手の形はひとりで練習ができるからね。いろいろと溜め込んだものを稽古にぶつけ、それを今日発散させてもらったのよ」

 延期に伴い複雑な思いはあったのだろうが、さすがに頂点を極めようとする人はマイナスの出来事をプラスに変える力がある。
 これからも大変だろうが、舞さんならと信じさせる演武だった。

「良い刺激になったわ。みんな、ありがとう」

 師範代の家で全員が朝食を摂り、舞さんは「結構忙しいのよ」と言って帰って行った。
 勝負だと叫んでいたキャシーのために結さんを残して行ってくれたのはありがたい。
 その後ろ姿を見送りながら師範代がポツリと呟いた。

「オリンピック、中止にならないといいわね」

 次のパリ五輪では空手は採用されていない。
 特例措置が取られるかもしれないが取られないかもしれない。
 舞さんはまだ若いが、パリで採用されたとしても日本代表がどうなるかは分からない。

「本当に」と私は祈るような思いで口にした。


††††† 登場人物紹介 †††††

日野可恋・・・中学3年生。幼少期から空手を習っている形の選手。大会出場には興味がない。

キャシー・フランクリン・・・G8。昨夏にアメリカから来日し夏休みはこの道場にホームステイしていた。長期休校中、出歩かないようにこの道場に軟禁されている。

神瀬《こうのせ》舞・・・空手形女子の日本代表に内定している。この春大学を卒業し、練習に専念するために大学職員となった。

神瀬《こうのせ》結・・・中学2年生。舞の妹で、姉と同じ空手形の選手。昨夏の全中で準優勝。

三谷早紀子・・・可恋が通う道場の師範代。選手時代はかなり名の知られた存在だった。

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