Lumix Baseの展示「Odds and ends」に行ってきたので感想書く
Lumix Baseで開催中のKeng Chi Yangの「Odds and ends」を語ってみたい。
Odds and Endsとは「がらくた、雑多なもの、取るに足らないもの」を意味する。名もなき場所を撮り溜めた風景写真群の展示である。
現代は有名撮影地で絶景写真が量産される時代だ。
〜の滝、〜の池、〜岩、〜棚田など多くが存在するがその中で名前のない場所の持つ意味は何か?
少し遠回りするが、まず初めに言葉がある。言葉が浮かんだ時点で、意味は固定され、それ以上の広がりを喪失する。これは「伝える」という行為を獲得した人類に与えられたトレードオフだ。言葉にできないことを何か別のもので表現し、それをさらに言葉に置き換えることで人は文化を形作り、伝えては遺してきた(急に話がデカい)。
一方で、人と写真の広がりにより名前のついている場所がどれだけ増えてしまったのだろうか?何者でもない木に名前がついた時、それは以前の「ただの木」として認識することはできなくなる。それが持つ唯物性は消え失せ、言葉が持つ意味の外側は強制的に切り離されていく。
ときに言葉はハッシュタグになり、バズになり、ミームとなってそれ以外の見方すら、削ぎ落とし、切り離していく。流れる無限の情報の中で、生き残るための強度を増すためには必要な行為ではあるがだろう。しかし、それを追いかける時にその景色、風景自身ではなく、言葉に置き換えられた情報のみの追体験となっていく残酷さを孕んでいる。
言葉と写真による「情報」としての生存戦略のための共犯関係と言ってもいいだろう。
Odds and Endsのコンセプトを私が好きなのはどういう景色なのかは説明ができてもそこがどこだったのか?は誰にも、もしかすると本人さえにも残っていない、というところだ。
それは特定の場所を切り取った具象であると同時に、どこでもない日本的特徴を集約した抽象でもある。どこかに必ずあるであろうことは認識できるのに、旅行ガイドをめくっても同じ道路を走っても決して巡り合うことはないのだ。
写真の記録性を問うならば、名前のない場所にこそ、それは相応しいと思う。名前のない場所は僕らを風景写真を見る、という原初の視覚的喜びへと誘う。言葉以前の、SNS以前のそれだ。
名前のある場所を巡るだけが旅ではない。
未知に出会うこと、自らの持つ言葉の外側にあるものに出会うことこそが旅なのだとすれば、Odds and Endsはこの都内で巡り会える小さな、しかし愛おしい旅の詰め合わせだと感じた。
地図上の点を目指す旅が世界の主流になりつつある。その中でハンターカブというカメラ以外の機材こそが取るに足らない愛おしい景色を記録する数少ない手段となっている。
どこでもない場所をあなたはきっと明日から探して旅してしまうだろう。
この記事が参加している募集
いただいたサポートはライカの金利に全力有効活用させていただきます。