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英語の恩師の生きざま

山口県の田舎の英語塾で始まった英語学習
このNoteに記事を「真面目に」書き始めたのはつい先月からですが、初めて記事を書いたのは昨年の5月終わり頃でした。その際に、学校で英語を話したり聴いたりする力をつけるための教育はしてもらえなかったという恨み言めいた記事を書いたのですが、思い返してみれば、出会った英語の先生方すべてがそのようなことに熱心でなかったというわけではなかったと思えるようになりました。

中学校・高校では、ほとんど英語を話す、聴くことについての指導がなかったことについては、昨5月に記事にしています。何が学習の転機になるかわからないものです。

英語学習のきっかけは、山口県の片田舎の小学校に通っている時に、母親が近所に英語の得意な高校生が住んでいるということを聞きつけたらしく、そのお兄ちゃんに英語を教えてもらえるよう頼んでくれたことでした。うっすらと覚えているのは、住んでいた家の斜向かいにあったそのお兄ちゃんの家に時々いき、アルファベットを教えてもらったことです。確か筆記体も教えてもらったような。それが、英語に興味を持つきっかけであったと思います。アルファベットの響きの新鮮さを思い出します。

次に、母親が見つけてきたのは、ミッション系の中学校(だか高校)の英語の先生が、自宅で中学生を相手に開いている塾でした。私が入ったクラスは、いわば中学校英語クラスの落ちこぼれクラスで、学校で英語の授業についていけない子たちが来ているクラスでした。(一人だけ、すごくできる「お姉ちゃん」がいて、その人に負けるもんかと、割と一生懸命勉強するようになったことを思い出します)

そのクラスでは、ソノシートと呼ばれる音源を使って、教科書の英語を真似する練習を繰り返したのですが、先生の発音が、ソノシートから流れるネイティブスピーカーと同じような、今思えばしっかりとした発音でした。周りの1年先輩たちは、どちらかというと英語苦手組中心だったので、テストなどあると私の成績はいつも1番か(時々(もしかしてしょっちゅう)あの「お姉ちゃん」に負けて)2番でした。おかげで、英語という科目に自信が持てたと思います。

広島の中学へ
父親が広島に出張して帰ってきた日に発した「広島の中学を受けてみんか」という一言と、彼が持ち帰った中学受験問題集がきっかけで、小学校5年生くらいまでは考えてみたこともなかった広島の中学校への進学を考えるようになりました。広島大学附属中学、広島学院、そして修道中学という3つの学校を受験しました。受験会場に行って何より驚いたのは、周りの受験生が、みんな腕時計を持っていたこと。

中学受験についてほとんど予備知識がなく、ただただ好奇心だけで受験した私に勝ち目は最初からありません。すべての受験が終わり結果を待つも、最初の2校からは想定内の不合格通知が。3校目もどうせダメだからと、周りの友達も、地元の中学校に行った時のことを思いながら、話をしていました。しかし、3校目の修道中学からは合格通知が来ました。面白半分だった話はそこから俄然現実味を帯びてきて…田舎町の駅で母親と弟が泣きながら見送ってくれました。

中学校1年の担任は、英語が専門の向井均(ひとし)先生。みんな「きんちゃん」と呼んでいました。今思えば、この先生が中学で最初の英語の先生だったことが正解でした。小学生の時通った英語塾の女先生とこの向井先生の2人が、ともにしっかりした英語発音のできる教師だったことは、確率的には非常に恵まれたと言えるように思います。失礼ながら、この後に中学・高校・大学で習った先生方で、このお二方ほど発音の良い先生はいらっしゃらなかったように思います。最初にあたった先生が、その先生方のお一人だったら、私の英語への興味は薄れていた可能性が大いにあると思っています。

同窓会で恩師に再会
どんな事情か詳しいことは知りませんが、向井先生は、比較的短期間私たちの学校におられたので、同級生でも、この先生を覚えている人は比較的少ないようです。短期間だったこと、先生は中高一貫校である修道の中学校のみで教えられていた模様で、高校から入ってきた同級生は先生を知りません。

東京で、毎年同期が集まる会を行なっています(この2年はコロナで中止)が、その際、中高時代の恩師を呼ぶことにしていました(今は、亡くなった先生、高齢で広島からの長旅はできない先生などが多いため、最近では難しくなってきてはいますが)事前の打ち合わせでは、高校時代の恩師を呼びたいという声が強く、上に書いた事情で向井先生を望む声は少数派です。しかし、ある年、私はどうしても先生に会いたくなり、実現したことがあります。

その時初めて先生のpre-修道、post-修道のお話を聞くことができました。pre-修道では、大学で「運動」の「闘志」だったこと、修道に知り合いがいてなかなか就職先の見つからなかった先生を「拾って」くださったこと。post-修道では、市内の別の私立校に移られた後に、英国の日本人学校にもいかれたことなど。(先生、間違っていたらすみません)

黒い雨と向井先生
同窓会に先生を迎えて何年か経って、新聞報道で向井先生の名前を目にしました。広島に原爆が投下された直後に降った「黒い雨」訴訟に際し、先生が苦心した作られた黒い雨の降った範囲を示す地図が、訴訟に際して大いに寄与したことなどについて報道でしたなんと72歳で大学院に入り、そこで取り組んだテーマが「黒い雨」だったとのことは初めて知りました。先生のこうした後日談が、わずか1年のみ教壇で見た先生の、ニヤッと笑われる笑顔と共に、「さもありなん」という感想を抱かせます。

それからもう一つ覚えていること。初めてフランス語の発音を教えてもらったのも向井先生。"par avion"の"avion"の鼻母音に触れたのは、先生が教えてくれた時でした。教室に一瞬「お〜っ」という声が漏れたのを、50年以上経った今でも思い出します。

こんな本もまた読んでみようかな。


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