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エスカレータの片側空けは人類の知恵か浅知恵か

このところネットを覗けば、エスカレータの片側空けに対するネガティブな記事や論考が散見される。「ネガキャン」の論調は、「エスカレータを歩く(あるいは、駆け上がる)」ことがもたらす種々のリスクに警鐘を鳴らすものから、エスカレータのステップに左右非対称の負荷が掛かることに起因する構造上の問題を指摘するものまでさまざま。なかには、片側を歩く輩は身を挺してブロックすべし、とする積極防衛論や、同好の士を募って鉄道各社に猛烈抗議せよ、と民衆の蜂起を焚きつけるものもある。

僕の立場を先に書けば、エレベータの片側空け、すなわちファストトラックの確保は、百年を越えるエスカレータの歴史を通じて、人類が試行錯誤的に獲得した、現時点での運用上の知恵、工夫とでもいうべきもので、エスカレータ史の自然の流れに竿さすような拙速な規制は厳に慎むべきと考える。

例えば、法律や条例である日を境にエレベータの片側空けが完全NGとなった世界を想像して欲しい。もはや、5分後に発車が迫った終バスにすんでのところで飛び乗ってセーフ!という刺激的な日常も、期せずして超ミニスカートの女性の背後に立つハメになってしまったフラジャイルな自らの立場を回避すべく、ミニスカの右側、あるいは左側をささっとすり抜けてほっと一息……なんて日常も今は昔、事実上、万策尽きて佇むしかない。生死を賭してでも死守すべきような権利、権限の類いではないが、歩行絶対禁止ではなにかと不便だし、あまりにも杓子定規に過ぎはしまいか。

もちろん、片側空けはあくまでも「現時点」でのデファクトスタンダードであり、しかも、その「スタンダード」は全国一様ではないので、今後も変化、変容を遂げ続けるだろう。

よく知られた例でいえは、首都圏の右側空けに対する大阪の左側空けなど、いわゆるローカルルールも存在するので、あるいは、探せばすでにエスカレータは「両側立ち」が基本で、片側空けは地域社会がこれをいっさい許容していない場所もあるのではないか。それもまた、地域地域での歴史的経緯に根差したバリエーションとでも呼ぶべきもの。例えば、旅行で訪れた折などに、エスカレータの乗り方ひとつに違いがあることの発見自体がなんだか楽しいし、愛おしい。

例えば、僕が主に暮らす東京でも、「大阪空け」よろしく右側に立つ人もたまには見かけるし、お年寄りや障害者、あるいは女子高生などが仲良く2人並んで同じステップに立つがゆえに、意図せずして後続の人々をブロックしてしまう場合もある。それらもまた、日常の一風景であり、目くじら立てて、「反対側だろが!」とか「邪魔だろが!」とか声を荒げる人など一人とていない(と信じたい)。

つまり、成熟した市民社会では、規則や規制はできるだけミニマムな最終手段に留めておいて、大概のことは先人が日々の生活のなかで実地で編み出してきた裏技的な運用の妙と、あうんの集団コンセンサスで動かす方が上手くいく。

例えば、大学教員として赴任先の札幌で四半世紀過ごした頃合いで、ある日、久々に東京の満員電車の人となってみれば、サラリーマンや学生の多くが背中のリュックを手馴れた動作で腹側に掛け替えるのには驚いた。僕はあれを未だに駅の駅弁売りみたいで滑稽だ、と考え躊躇する狭量な考えの持ち主だが、その実、そこに盛られた他人への配慮、レスペクトには「日本人とは……」と、ただただ恐れ入る(ちなみに、僕もよほど混んできたら、[駅弁売り掛け」はイヤなので片手で下げたりはするのである)。前に掛け直そうが背中掛けのままだろうが、絶対体積はさほど変わらず大勢に影響はない、と揶揄する向きもあるが、ここでも東京の満員電車から全国に自然発生的に波及した運用上の知恵や工夫があって、実効性以上に、その気配りが車内の安寧に寄与しているのだろう。

もっとも、エスカレータの片側空けにしろ、リュックの駅弁売り掛けにしろ、今後、社会のパラダイムが大きくシフトすれば、いっきに廃れてしまう可能性だってないではない。

事実、例えば、子どもの頃は「そこどけ、そこどけ」風にベルをチリンチリン鳴らしながら自転車で歩道を疾走したものだが、歩行者優先に完全にシフトした現代、自転車のベルを一回チリンと鳴らすのも相当に勇気がいる。同様に、車道を跨ぐ歩道橋もいまでは大方は撤去されてしまったが、たまに出喰わすとその風情は前時代的というか……オワコン化が著しい。

ならば、エスカレータの片側空けがオワコン化するときは、一体全体どんなときか。

ひとつには、高齢化が今後さらに進展すると、いっそエスカレータも上り2基、下り2基の合計4レーンがデフォルトとなるやもしれない。上下それぞれエスカレータそのものが低速と高速に分かれる時代の到来である。もはや、歩かなくてもいっきに上下移動ができるのであるが、人は放っておくとさらなる高みを目指して、[高速レーンの片側空け」を始めそうな気もしないでもないが。

もうひとつの方向性としては、百年続いた「動く階段」としてのエスカレータのみならず、「階段」そのものがここへきて遂にオワコン化する未来の到来も——こと人口減少の著しい日本では——あり得る。例えば、ハイライズのオフィスビルやコンドミニアムが密集するニューヨーク・マンハッタン島も、ひとたび橋を渡り郊外に向かえば、そこに建つショッピングモールの類いは、一階建てか、せいぜい二階建てである。工費をかけてまで上に売り場面積を拡げなくとも、横展開が可能なだけの地べたに十分な余裕があるのだ。

翻って、人口減少著しい日本も、商業利用可能な土地の面積が相対的に拡がって、構造上の強度も価格も抑えられる「一階建て」が今後ますます増えていくだろう。階段も動く階段も必要としない社会の到来も、まるで荒唐無稽な話とはいえない気がしてならない。

そのとき日本人は、「片側空け」で議論が巻き起こったことはおろか、たまに遺る動く階段としてのエスカレータの存在そのものを「令和ロマン」と受け止め、「わー、素敵!」と歓声を上げるのだろうか。

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