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凶器は綿棒

綿棒にはちょっとしたこだわりがあります。といっても、何も綿先にエンボス加工を施して凹凸を付けた、あの黒いのとかでなくとも、ふだん使いの、ドラッグストアの特売品で十分なのです。ならば、「ちょっとしたこだわり」を強いて言えば、軸の硬さと綿の詰まり具合といったことになりましょうか。具体的には、「軸」はプラスティック製のふにゃふにゃタイプよりは紙を硬く巻いて固めたソリッドなのが好みですし、「綿先」も当たりのやさしいふわふわタイプよりはこれまた硬巻き系の、綿が詰まった感じのヤツが好きです。

ただ、この硬い軸の、詰まった綿先の綿棒好きが災となって、つい2週間ほど前、その事件は起きたのでした。

就寝前のシャワー後、若い頃からの悪い癖で綿棒で耳かきをしながら家の中をほっつき歩いていましたら、うっかり肘を廊下の壁にぶつけてしまい、その反動で、綿棒をけっこうな勢いで左耳の奥まで突き刺してしまったのです。

「痛っ……」

咄嗟に綿棒を引き抜いたものの後の祭り。時間にして0.1秒足らずの出来事でしたが、翌朝一番で駆け込んだ近所の耳鼻咽喉科のドクターには、

「鼓膜、がっつり裂けてますね」

と無慈悲な診断を下されたのでした。左耳の違和感——少年の頃の夏休み、プールで耳に入れた水が抜け切らない、あの独特の難聴感——が前の晩からずっと続いていましたから、そんなことだろうと想像はしていましたが、改めて宣告されると、我がことながら取り返しのつかない愚行が悔やまれます。よりによって綿棒が凶器たり得るとは……。泣きたくなる気持ちを抑え、さらに訊くのでした。

「鼓膜、塞がるもんでしょうか?」

「大丈夫。仮に塞がらなくとも手術で塞ぐこともできますし」

それ、大丈夫じゃないヤツやん……。そもそも目は見えづらいわ、加えて耳も聴こえにくいわで踏んだり蹴ったりですが、原因が綿棒だけに綿棒ない、あ、いや、面目ないとはこのこと。「綿棒で鼓膜を破いた」などといったら、まさに面子が立ちません。

そこから2週間が経った現在、幸い、左の聴覚にもはや違和感はなく、左右の聞こえ方にも差異はまったくありません。例の耳鼻科医曰く、

「鼓膜の穴はまだ完全に塞がったわけではありませんが、だいぶ小さくはなってきている」

どうやら「鼓膜縫合手術」だけはまぬかれた恰好ですが、念のため、さらに半月ほどは左の耳に耳栓をしてシャワーを浴びるつもりでいます。

ニューヨークでは「地下秩サーフィン」で命を落とす若者が増えている、との記事をYahoo!ニュースで読みました。どうやってよじ登るのか、地下鉄車両の屋根に上がっては、「サーフィン」を楽しむ様子を動画に撮ってネットに上げるのだとか。上げた動画がモノ凄い再生回数を稼ぐものですから、若い人たちの間で「地下鉄サーフィン」は後を絶たないといいます。今年だけですでに5人が命を落としている、との記事でした。

地下鉄トンネル内の、頭上の突起物にゴツンとやったときの後悔は、綿棒で耳掃除しながら闊歩中に「痛っ……」とやったときの後悔の比ではないと思います。というか、地下鉄サーファーにそもそも後悔する一瞬の猶予があるのかどうなのか……。ヒューマンエラーとは究極、防ぎ得ないものであればこそ。そもそも懲りない人間なるものの所業なのでありまして、後悔先に立たず、とはまさにヒューマンエラーの本質かと思います。

ならば、ヒューマンエラーを恐れて、地下鉄サーフィンも歩きながら綿棒も決してしないのか? 残念ながら命知らずの若者は地下鉄サーフィンのチャレンジを簡単にはやめませんし、懲りない僕も「ながら綿棒」をこの先もときどきはやるのだろうと思います。なぜなら、良い加減(よいかげん)の挑戦と失敗は、その痛みと後悔と相まって、生きていることの証左でもあるからです。

冒険家の植村直己さんは、43歳の若さでアラスカ州マッキンリー山中で行方不明となったまま、未だ「帰らぬ人」ですが、こちらはその挑戦と失敗によって(面目ないどころか)冒険家の面目躍如といった観があります。

(ちなみに、「帰らぬ人」といえば、一昔前、借金に追われたピアノ調律師が、沢山の風船を身にまといお空に消えた「風船おじさん」騒動がテレビのワイドショーを賑わせました。何度か民家の屋根等に不時着を繰り返したあと、ついには「帰らぬ人」となった風船おじさんとは、自宅で帰りを待ち侘びる(?)奥様が義妹のピアノの先生だった、という浅からぬご縁があります。)

もちろん、地下鉄サーフィンは自分の足で家に戻り自分の手で動画を上げられてこそ、風船おじさんは地上に舞い戻り家族や世間をあっと驚かせてこそ、そして、ながら耳かきは鼓膜に穴を開けることなく垢を拭い、いっときの至福感を得られてこそ。緑内障の爆弾を抱えている当事者ゆえ、一度綿棒で鼓膜に穴を開けた犯人であり被害者ゆえ、見えること、聴こえることが、ことさら愛おしく思える今日この頃です。

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