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ハインツのトマトケチャップ

「Tシャツならヘインズ(Hanes)で決まり」と何十年も前にサザンの桑田さんがなにかのインタビューに応えて断言していました。発言の説得力は桑田さんに遠く及びませんが、「ハンバーガーのケチャップならハインツ(Heinz)で決まり」と声を大にして言いたい。実際、アメリカンハンバーガーはこれなくしてはアメリカンハンバーガーたり得ません。

さて、そのハインツのプラスチック容器が天地逆に、すなわちキャップ部分を下にしてテーブルに置かれるのがお決まりなのは、いまどきは日本人の多くが知っています。もちろん、その方が無駄な空気が抜けて、キャップを外すとすぐにノズルからケチャップが出せるからです。容器の逆さ置きをたやすくするために、キャップは進化論的にだんだんと肥大化を極め、今日のデカさと安定感にたどり着いています。

で、ここでの問題が、その容器に貼られた「ハインツ」および「トマトケチャップ」の表示シール。スッキリとした、どちらかといえばミニマムなロゴは、容器をテーブルに「逆さ置き」してはじめて正しく読める向きで貼られています。すなわち、ハインツのトマトケチャップのボトルが店頭で売られるときは、十中八九キャップを上にした状態で棚に並びますから、この(逆さ置きではない)「本来の向き」置きのときは、腹に貼られたシールの方が天地逆になるという不思議な現象が、北米各地のスーパーでは日常の風景となっているわけです。

いつから? 2003年から。——言わせていただきますが、ググったわけではありません。そのコペルニクス的大転換の瞬間を、僕は現地で、この目で目撃したのであります。

2003年の8月から、僕はカナダ・アルバータ州レスブリッジ市のレスブリッジ大学に半年間の予定で滞在していました。文字通りキャンパス内の教員宿舎に、わけも分からず連れてこられた中1の次男と二人で住んでいたわけです。

僕自身は(何曜日だったか忘れましたが)週に1回教壇に立てば良いだけですが、次男は平日は毎日現地での学校があります。週末こそダウンタウンに出て、寿司や中華などの外食をするのが我ら男二人のささやかな楽しみでしたが、平日は断然暇な僕が夕食の準備をするより他ないわけです。レスブリッジに来てすぐに息子は僕のことを「一品料理のヒロちゃん」と失礼極まりない渾名で呼び始めるようになっていましたが、少なくとも「一品」は食卓に供する必要があります。でないと、口さがない次男のこと、「ネグレクトだあ」などと大学当局にチクりかねません。

そこで、キャンパンから一番近い——それでも1キロ以上は離れた——大型スーパー「スーパー・サム」に少なくとも3日に一度は歩いて買い物に行くのが習慣でした。

さて、果たしてカナダ滞在中の2003年のある日、スーパー・サムの陳列棚の一角にて、ハインツのトマトケチャップのラベルが天地逆に貼られているのを目撃することになります。始めはなにかの間違いかと思いました。ただ、1本や2本ではないのです。2列か3列分ぜんぶのハインツのボトルのシールが逆さなのでした。これはなにか大変なことがハインツ社か、北米社会に起きているに違いない、と感じたものです。

よっぽどペンシルベニア州ピッツバーグ市のハインツ本社に電話しようかと考えもしたのですが、ほどなくして、とあるカフェに備えられていたニューヨークタイムズの記事を読んで、あらかた合点がいったような次第。曰く、今回、ハインツ社は、同社のトマトケチャップのボトルが自宅やレストランの卓上で逆さに置かれるのが一般化している事実に鑑みて、それならばと思い切ってラベルの天地を逆にする決断を下した、というのです。それは、ハインツ社による19世紀末以来のトマトケチャップ製造史における、文字通りの世紀の大変革である、とのニューヨークタイムズ評でした。

この出来事からのレッスンは2つ。市場は、あるいは、社会は実践先行でこそ変化を遂げる、ということがひとつ。そもそもハインツのトマトケチャップ瓶は当初、使用のたびにきちんと戻して、すなわちキャップを上にして卓上に置かれることを想定してデザインもされ、つくられもしたはずです。それが長いながい北米の食生活のなかで、使用時の利便性や合理性を考えると瓶は「天地逆」が広く定着したのだろうと。そのデファクト・スタンダードに寄り添うようにして、製造元のハインツはボトルそのものの形状やデザインを不断に見直してきたはずですし、その最終形が「ラベルの逆さ貼り」だったのでしょう。

もうひとつのレッスンは、それでも定番中の定番品は変化を最小限に止める、ということ。今回、ハインツがやったことは、言ってみればラベルの向きを天地逆にしただけ。もちろん、ボトルの形状は上下では違っていますので、ラベルのデザインそのものはなにも変わらない、と見せかけながらも、ミリ単位の修正は行われたものと思います。ただ、ケチャップ作り百年の歴史を持ち、市場占有率が50%を越えるハインツにとって、デザイン変更は最小限、かつ漸増的に止まらざるを得なかったのではないか、と思います。むしろそのことが——変革は単にラベルの向き程度のこととしたことが——人々を驚かせもし、安心もさせて、最後はみんなを笑顔にもしたのかもしれません。ザ・クラシックは強いな、とつくづく思います。

デモデダイナー(東京・福生)のハインツ・ケチャップ&マスタード




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