「解体社 セリーヌと「動物」をめぐって (2)」 アートの公共学(9) 『テアトロ』 2018年8月号

『人体言語/虐殺のためのバガテル』の表象

 『人体言語/虐殺のためのバガテル』の舞台の表象は、一見したところ、いつもの解体社の作品の基調に沿っている。たとえ、かつてに比べたらテクストを扱う量が増えたといえ、身体性の演劇でありパフォーマンスという基軸は変わっていないからだ。パフォーマーたちは、それぞれに自己の身体と関わる様々な行為を行っていく。ただし、それがテクストの持つ負荷とともにある。まるで、読まれていくテクストと身体が共振するかのように、身体がテクストに読まれると同時に、引用されるテクストもまた身体性に包まれていく。

 冒頭、薄暗い中から現れる一人の男によって「水平社宣言」が、とつとつと読まれる。「人間に光あれ」という高らかな宣言とは裏腹に、そのパフォーマーの身体は、まるで見えない何かを恐れているように小刻みに震え続けている。その宣言の持つ意義は、作品が進むにつれて分かる。それこそ「動物」という問題と接続されるからだ。

 被差別者であれ、人間性の中に人間の誇りを見出す宣言は、人間を中心とした視点に立っている。ではそもそも獣と人間を分かつものとはなにか。むしろ獣という視点から人間を見つめることによって、人間なるものを脱構築するのが、デリダにおける動物の概念だ。それはデリダの思想を借りるだけでなく、この作品を通して提示されていく身体性だ。いわば、舞台を通して人間もまた動物であり、動物の身体であることが描かれる。むろん、最初のシーンだけではそこまではわからないが、この「水平社宣言」もいつもの解体社の引用するテクストの一つという意味を持つだけではない。別の文脈も伴っているのだ。

 そのシーンのあとは、セリーヌの『虐殺のためのバガテル』はもちろん、その他のセリーヌのテクストや、セリーヌの妻の残した告白、いくつかの寓話なども散りばめられて、パフォーマーたちの身体の状態が細部にわたって露わになる。静謐な緊張感のある空間は終わりまで一定の重さのように維持される。いつものように仄暗い舞台のなかで鳴り響く重低音のあるサウンド。民家を改造したアトリエ空間は、大きな窓からの街の光や微かに入る音など、劇場とは違って自在に外部の状況を受け入れる。

 たとえば、セリーヌの妻のテクストを語るシーン。まるで実際の小部屋に置かれた小さなテーブルと椅子に背中越しに座る一人の老いた女性は、壁に掛かった絵に向かって、かつてあった失われた時を求めて、セリーヌとの愛おしい記憶を紡ぐように話す。舞台の片隅のはずが、そこは実際の小空間の光景も合間って窓辺に思えてくる。それはセリーヌの妻の役を演じるとはいかないまでも、非常に演劇的なシーンと言っていい。しかし、そこから単純なシアトリカリティにおもねらないのも解体社ならではだ。テクストが使われて、そこで読まれる妻のセリーヌへの愛情の物語に観客を引きつけることもできるはずなのに、同時に拒否されるのだ。

 舞台が進むにつれ、徐々にセリーヌの反ユダヤ主義のテクストがいくつも言葉にされる。パフォーマーたちの身体もあいまって、ある熱狂を帯びたものへと変わっていく。それぞれの身体性をモチーフとした動きにも関係してくるからだ。いつものパフォーマーたちの動きも、まるで斜めから見る視点が挿入されるように違って見えてくるのだ。地面に敷かれた鏡の上で照り返される身体や、四肢がまるで切り裂くように動いたり、何かにうなされるように震えたり、動物の身体と接続されるように自身ですらコントロールできない人体。一つ一つを取り上げれば、それは過去の作品にもあった動きであり行為かもしれない。しかし、わずかであれ異なる文脈にも置かれると身体も変容をきたす。

 たとえば、鏡のようなものの上で示される身体は、それこそ見られる身体だ。見られている身体を照り返すように相手に見せるということも解体社のふだんの方法だが、そこでの身体もかすかな差異がある。観客を照らし返すことはもちろんだが、鏡からも映される身体は見られることの恥ずかしさがある。デリダが語るように動物に裸を見られて感じた恥ずかしさという人間としての身体の感覚をいかに提示するか。それは観客とパフォーマーが同時に動物として対置される瞬間だ。その間である、見ることと見られることによって、動物としての人間の身体が生まれる。

 また、あるシーンでは背景の字幕に当時セリーヌの反ユダヤ主義の本がいかにスキャンダラスに賛否両論を巻き起こしたのか、その書評が流れる。いくつもの身体のパフォーマンスが作り出した空間は、ときにマイクを使ったナイチンゲールズの寸劇のようなシーンも入れ込まれる。それは、から騒ぎのような奇妙さといえる。その空虚さはおそらく差別とファッショという二つのものが混ざり合った、戦間期から二次大戦期へと移行するフランスの独特な空間をも想起させる。どれだけ熱狂が渦巻いても、それは笑いというおかしさの中にあったのではないか。その飽和点は熱狂の果てにある、からっぽなものであり、セリーヌのテクストの熱っぽさも無化される。

 だからというわけではないだろうが、終わり近くには全員のパフォーマーたちが舞台に立ち並び、再び一心不乱に震え続ける圧巻のシーンがある。それはまるで最初のシーンのように戻ったように、ひどく緊張を強いられて、逃れようのない身体たちだ。熱狂のなかで享楽に浸る身体とは違う。享楽に浸りたくても浸れない、必ず裂け目のように亀裂が入れられる。それはいわゆる両極にあるもの、もしくは複数性ともいえる、いままでの解体社の舞台の読み方とも違う差延がある。あることを提示しながら、しかしそれもまた同時に批判される。セリーヌのテクストを用いつつ、セリーヌが批判(吟味)されるといっていい。

新たなる試みとしての動物

 実際、セリーヌ以外に引用されるテクストには、講演や講義録のままで終わったデリダの晩年の思想、『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』の一節から動物に関する引用もある。先に述べた獣である動物とそれは深く関わり、そこにもまた差別と反差別という両極がある。自身もまたアルジェリア出身でユダヤ人として差別を受けているデリダは、当たり前だがセリーヌの反ユダヤ主義のテクストとは真逆のものだ。むしろ、そのような人間的な、あまりに人間的なものを徹底的に脱構築するために動物の視野がある。また、前号で述べたが、これまでの解体社の文脈でしばしば取り上げられていた、身体のテーマと関連する剥き出しの生を唱えたアガンベンも、デリダの講演録『獣と主権者』では批判される。それも人間という枠を超えていないということからだ。

 もちろん、デリダはアガンベンとの差異を見つけようと批判したのだろうし、解体社はセリーヌと剥き出しの生、ときにそれは近似的なものに映ることに対して、動物という両極なはずのものを置くことによって新しい思考と身体の場を開こうとする。いままでの解体社の文脈である剥き出しの生とセリーヌのテクストを蝶番させるものとして動物がある。舞台に置かれるパフォーマーたちの身体を通して示される位相は、主権者として人間そのものの固有性と思われていた政治を脱構築する契機を、身体のなかに全き他者である動物として見出そうとする。

 だから、冒頭のシーンは幾重にも意味を持つ。リテラルには「水平社宣言」としての差別という問題。それは被差別以外にも、むろんユダヤ人問題なども含まれる。しかし、「水平社宣言」自体もまた、時代の限界であり段階的に必要なものだったとしても、人間であるということでは人間を中心としている。では、動物というものを対置すればどのように映るのか。それは、剥き出しの生としての身体=人体もまた再び問い直される。

 だから、自らの今までの作品を煩悶するように、反復を繰り返しながら、差異が見出されていく。それは同じような基調を伴っていても、違う文脈が、ときにそれはラディカルに、ときにわずかなズレとして舞台には現れる。その意味において、解体社はかつての「ポストヒューマン・シアター」のように、セリーヌを通して新しいことを開拓しようと試みている。しかも、それは大げさにいえば、デリダが未完のままに終わった動物という問題を、スノッブとしてポストモダンの果てに現れたコジェーヴが唱えた動物とは違う動物というものを身体に落とし込もうとする。

 かつての三部作ではセリーヌのテクストを通して、単にナショナリスティックな現代を穿とうとしたのではないかと思われたことは、はるかに後景に退いた。むしろセリーヌのテクストであるからこそ、抑圧や熱狂といった幅広さのなかで動物としての身体が提示される。その意味では解体社の射程は、はるかに深く広い。まるで、来たるべき世界への問いかけを身体という場で行おうとしているようだ。


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