「りっかりっか*フェスタ 2018」  アートの公共学(12) 『テアトロ』 2018年11月号

子どものための演劇

 いまや二十代ぐらいまでの世代に、子どものころに観た舞台で印象に残っているものを聞くと、だいたいはミュージカル、とくに劇団四季の名前が挙がる。小学校や中学校の団体鑑賞で劇団四季を観に行ったことはもちろん、子どもの頃に地域の市民ミュージカルを観たり、実際に参加したりと、演劇といえばミュージカルのことだと思われるようになってきた。

 『ラ・ラ・ランド』のような映画のヒットも大衆化には一役かっているだろうが、とにかく一昔前のミュージカルに対してのイメージである、なぜ俳優たちは突然歌い出すのか、なぜ途中で踊りだすのか、そのような疑問はもはや耳にしない。むしろ、なぜ深刻な顔をして悲しいシーンを演じているときに歌わないのか。なぜうれしい時や楽しい時にはダンスをしないのか。歌やダンスで表現しないことへの疑問を聞くまでになった。

 確かに、そもそも演劇とは劇詩を朗唱する行為であり、コロスたちが唱える声もおそらく奏でられるようなものだったと考えれば、古代ギリシャの時代よりサテュロス劇などでは、歌うことも踊ることも取り入れられていたのではないか、と思わせる。そこにおかしさを感じるのは、ミュージカルに慣れていないというよりも、むしろ近代のリアリズム演劇の形態に慣れてしまったからだろう。

 日本の児童演劇を取り巻くイメージの醸成は、とくに中堅ぐらいの世代までは、歴史的にもその延長線上にあるのではないか。たとえば、説教くささ、おしつけがましさ、良いことや悪いことを暗に作品のなかに提示しようとすることなど、現在では変わりつつあるのかもしれないが、学校の鑑賞事業で観た作品に嫌気をさした人は多いだろう。少なくとも本来の童話の世界は、アンデルセンやグリムであれ、もっと残酷で不条理であり、人間世界の理不尽さを描いている。日本の児童演劇の歴史とも関係する、さすがにテーゼとまでは言わないが、イデオロギーとリアリズム的な演劇形式の名残は根深い。

 児童演劇の劇団の成立する構造でもあるだろうが、単純に公演をして一般の観客からの入場料の収益だけで成り立たせていないこともあるのではないか。学校公演のツアーを中心とすると逆に時代の変化に敏感になる必要はなくなる。それは学生そのもののニーズとは無縁であり、招聘するかを決めるのは主任クラスの教員だ。また常に学生は更新されるので、同じ相手を対象としない。だから逆に古さが延命できてしまう。

 しかし、九十年代後半より明確に始まる公共劇場の存在は、アウトリーチとして地域コミュニティへの貢献や生涯教育、子どもへの演劇公演も行ってきた。海外から作品を招聘したり、海外の演出家とともに作品を作ったりするなど、新たなる展開を見せている。

 日本の現代演劇史を描くこととも関係するが、たとえば美術館という制度と美術の動向は日本の現代美術史を描く際に必要とされるのと同様に、公共劇場の存在は新劇と小劇場という対立項、もしくは商業演劇と非商業演劇の境が融解した現代の演劇史を考える上で必須のものだろう。そして、それは児童演劇に対しても同じだ。いわば、劇団四季の団体鑑賞や日本の児童演劇の路線とも違う、第三極がある。

りっかりっか*フェスタ

 その一つに数えることもできるかもしれないが、毎年七月末に行われる那覇を中心とした国際児童演劇フェスティバルがある。名前は「りっかりっか*フェスタ」。かつては、キジムナーフェスタという名称で行われていた。日本に舞台芸術の国際フェスティバルはいくつもあるが、このフェスティバルの、とくに海外招聘される作品のレベルは非常に高い。おそれずに言ってしまえば、日本の児童演劇の劇団で、この水準の作品はなかなか観ることができないのではないか。今年も10カ国以上、30本近くの作品たちが、10日間ほどの間に上演された。そのなかでもスコットランド特集として、いくつもカンパニーが紹介された。

 このフェスティバルで上演される作品はどれもおよそ1時間程度。少人数のパフォーマーによって演じられ、基本的にノンバーバルで言葉はほとんど要らない。趣向もタイプも違い、野外で上演される作品もあるが、テーマや内容はシンプルなものだ。しかし、作品の形式としては、当たり前のように見ているふだんの演劇というものを再び考えさせられる。子どものための演劇には制約があるが、逆に大人の視点では見慣れた舞台芸術のコードを逸脱する部分がある。

 実際、一口に子どものための演劇と言っても、何をもって子どものための作品になるのか。言葉いらずのシンプルなものというだけならダンスでもいい。実際、いくつかのダンス作品は、そのままコンテンポラリーダンスの文脈で通じるものだった。しかし、あえて本質的な違いをいえば、芸術という崇高なものとしての美を求めるというよりも、そこに親しみを入れようとする、と言うことはできるかもしれない。

 たとえば、スコットランドのバロウランドバレエの『ホワイトアウト』という作品は、子供のためのダンス作品ではあるが、そこには振り付けと性別、地域、民族などの境をいったん白紙に戻すような試みがあった。日常的な身振りでも男性的、女性的な身振りがあるように、それらをカッコに括ってみる。それ自体はよくあるコンテンポラリーダンスの手法だ。しかし、技術やムーブメントを追求して精度を高めたダンスとなろうとするよりも、観客である子どもたちと舞台上のダンスとの間につながりを持とうとする。いわば、美における拒絶や恐れを提示しないのだ。それは、同時に教育的なものとして、ジェンダーによって区切られないマイノリティの存在も提示している。

 同じく、スコットランドのレッド・ブリッジというカンパニーが創った『ナイト・ライト』がある。出演するのは俳優一人。周りを布で覆った小さな空間で、舞台には子どもサイズの小さなアンティーク調の家具がいくつも置かれる。壁時計、テーブル、椅子、食器棚やランプなど。そこから始まるのは、淡い夜の時間から始まる小さな物語たちだ。夜の世界を見守る男。かれはアンティーク家具の扉の向こうで起こる世界の出来事を見ている。犬が出てきて吠えたり、赤ちゃんが泣いたり、怖い映画をみる子がいたり、どこにでもありそうな夜に、眠らない一人の女の子がいる。彼はその子を夜の世界を案内する。

 ただし、出演する俳優が一人といったように、その他のものは実際に現れることはない。照明や音、もしくはその俳優が語りかける会話の断片によって、そこで起こることや実際に提示されていないものを観客に想起させる。つまり、愛らしい空間として夜の世界で起こっていることがイメージできても、舞台上にはすべてのものが不在なのだ。

 確かに最初に小さな犬の置物だけは出てくる。それが犬の役となる。しかし、その犬も家具の向こうを通って何処かに行き、あとは吠え声や俳優が話したり、あやしたりする行為だけによって犬のイメージが示される。オブジェクト・シアターと呼ばれる、ものを扱って作品を創る方法ではある。しかし、不在のものの姿をさまざまなものを駆使して浮かび上がらせるが、その姿は一定していない。いわば作られるイメージそのものが可変的なのだ。だから、そこであらわれる女の子や犬のイメージは観ている人によって違いがある。

 児童演劇に限らず、一般的な演劇においても舞台にそのキャラクターを出さないことはよくある。第三者の会話や行為によって想像させることは、演劇の基本でもある。しかし、その場合はいないものに対してリアリティを求めるべく、人物や対象の造形はしっかり作る。ぼやけたイメージでは通常はリアリティがないと一蹴される。しかし、その確固たるイメージなどなくとも演劇は成立することを、まるで子どもたちならば、自由な想像力で受け取ることができるといわんばかりに作る。

 あらゆるものが不在だからこそできる、その自由に造形されたイメージは、大人の演劇で実験を謳う作品よりもよほど観客に委ねるということでは実験的だ。もちろん、その舞台の表象は子どものための演劇らしく、可愛らしさを常に保っている。だから、観客が思う数々のイメージが違うことが、当たり前のように思えてくる。それこそがイメージと対象をどう結びつけるかという、いわゆる見る側と対象との間に結ばれる線を簡単に飛び越える。ベルクソンではないが、イマージュによって空間が包まれるのだ。

 最後に、ショーナ・レップの『シンデレラ』を挙げたい。これもスコットランドの作品だ。ストーリーはシンデレラだ。舞台にはいびつな形をしたテーブルが一つだけあり、そこから出てくる人形や指人形をひとりで操り、自身も物語の合間に出てくる。いわゆる屋敷の掃除、姉たちのいじめ、憧れの舞踏会と靴を合わせるシーンなど、よくあるシンデレラではある。しかし、人形を操る本人が物語のなかで消えないということは、第三者としての視点も提示する。それこそ、異化する視点を、ブレヒト的な教育劇のようにもたらす。その意味では、近代のリアリズム演劇という形態を子どもに押し付けることはない。むしろ、子どももそこで起こることを楽しむと同時に、ときに距離をもって観ることもできるし、シンデレラの悲しさやガラスの靴が合うさまなど、物語に没入して見ることもできる。もっと自由に作品はあり、なんの先入観もない子にとっては、演劇という形態の自由さをこれらの作品を通して知ることができる。


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