「キュイという新しい世代の作家」 『テアトロ』 2017年7月号

風景論の現在

 青年団リンクの劇団、「キュイ」が『TTTTT』という企画公演をアトリエ春風舎で行った。主宰する綾門優季の三本の短編をまとめて上演するというものだ。世代的には、いわゆる最若手の作家にあたるだろう。演出はそれぞれ違うが、同じように若い世代の演出家たちが担当している。三本の作品名は、『人柱が炎上』、『景観の邪魔』、『非公式な恋人』。順に下田彦太、橋本清、鳥山フキの三人が演出した。そのどれもが違うタイプの演出であったというよりも、似通った演出となっていた。戯曲のイメージをなぞるといったらよいだろうか。

 それぞれの作品の内容は、現在の社会的な状況の一端に触れるように、見ようによっては話題になったニュースが取り入れられている。デモ、東京オリンピック、ジェンダーなど、時代の表面にふれる。

 しかし、いわゆる中堅世代の物語を描く作家たちのタイプ、なんとなくリベラルな意見を言う、政治的な正しさとして主張が成り立つことを前提とする作品たちとは違う。そのような意見を、作品を通して言うことは、作家性というよりネタにすぎない。浅薄な主張は、床屋談義にすらなっていない。中津留章仁が座・高円寺で公演した『たわけ者の血潮』などが、いい例だろう。

 一連の「社会派作家」たちに比べて、綾門が描くのは、ある事柄に対してさまざまな角度から明確に言葉にできない、それぞれの違和感を提示する。それはある若い世代の層の表象としてあるようだ。だから単にテレビで流れるニュースを選んでいるわけではない。それはかすかに彼らの身近な感覚にふれるものであり、何らかの反応が示されるものだ。

 ただし、物語は際立ってなにかが起こるわけではない。淡々と描かれる。しかし、そのなかに単なる日常の光景を描くだけではなく、ひねりがある。たとえば『人柱が炎上』では、デモに関してのさまざまな思いが、それぞれのキャラクターによって語られる。舞台は近未来に設定されているが、それも功を奏している。直接に時事的なニュースを扱わない方法としてもあるだろう。

 作品の寿命を延命する措置とも言えるが、むしろデモとの距離感の取り方を描く方が大きい。どこか対象に対して、つかず離れずなのだ。作品として、デモに賛成や否定を声高に言うのでもない。デモについては、気にとめているし、どのような形であれ反応はしているが、しかしあやふやのなかにある。感情の襞にふれるものといったらよいだろうか。

 少なくともかつての政治の熱い季節のように、自己の存在を投企するようなことは謳われない。ましてや、挫折もない。描かれる人々は市民たちと言ってもいいかもしれない。国会前を取り巻くデモの流れに参加しようとする人。興味がない人も描かれる。それ自体が、デモを取り巻く磁場としての言説を作る。デモの最中に事件としてテロが起こり、それについても話されるが、テロそのものに深く触れることはない。しかし、それぞれの登場人物が話す会話と、その表象のほうが興味深い。なぜ、どの登場人物たちの考えに対しても、いびつな違和感がわずかながら残るのか。

 実際、脱原発デモに代表されるように、学生たちの声としては解散したSEALDsシールズ(学生たちの緊急アクションとしての運動)に代表されるように、組織化されていない自発的な組織かのような運動が新しい社会運動とされて、デモの形、もしくはアクションとして注目された。極左やセクト、そして右もまたいらないという大衆的なリベラルな市民運動の形成は、逆に言えば、イデオロギーを政治的無意識にして忌避する志向がいまもって強く働いているということだ。

 作家が作品を通して発言するとき、社会と演劇などという公共圏なるものに演劇が包摂されたなかでは、そこから外れる方が難しい。社会派作家たちは、リベラルな意見の表層をなぞっていれば、それで作家として主張や意義を果たしていると勘違いしている。それは、なにものからも自由でありたいというアートの背反する運動からはもっとも遠い。

 しかし、そこで起こっていることをどのような形で浮かび上がらせるのか。自然発生的な運動を含めて、運動そのものとはなにかをうまく形にできずとも、考える方が誠実ではないか。かつて左翼がサヨクとなり、風俗左翼やオモシロ左翼などへと運動の季節のあとに変遷していったながれは、80年代の表象において、今から見れば反原発運動など重要な流れも見えなくさせた。かき消されたのは、運動そのものへの忌避からだろう。

 かつてといまは何が違うのか。その微細さにふれるこの作品は、戦争を未来に先送りした平田オリザや、一時期の岡田利規の戯曲に影響を受けている面も含めつつ、若い世代の感覚を提示しているのではないか。だからこそ、デモに参加すること、それを見ていること、戸惑いや拒否をふくめて、運動そのものがもつ磁場とそれへの反応が作品からは現れる。

 戯曲を書く技術自体は、昨今の若手作家たち、とくに劇作家協会の周辺にいるような予備軍たちと同様に備わっている。小さくまとまっているという批判もあるだろうが、大いなる破綻や下手さゆえに比喩的に言えばゴツゴツとした手触り感はなくとも、ふと立ち止まるかのように、考えさせられる要素がある。

オリンピックと風景

 二作目の『景観の邪魔』は、近く行われる東京オリンピックの後の世界を彷彿とさせる近未来のSFだ。なかでもオリンピックの終わった後の、荒廃とは呼べないまでも、その寄る辺のない世界を描く。モチーフ自体が新しいわけではない。近未来という問題も、都市という問題も、それは回帰する問題だ。一九六〇年代もまた、高度成長期のなかで、発展途上国から先進国に変わる際に起こった大規模開発が、都市空間そのものを変容させた。しかし、いま、もしくは今度のオリンピックのあとはどうだろうか。かつてのように単純な膨張ではなく、それぞれの地域で生き物かのように盛衰をする都市空間は、かつての隆盛を単純に求めることはできない。むしろ、衰退と奇妙な背反関係を結ぶ。いわば、発展と衰退が、都市空間が変わるということでは、交わる点としてあるようなのだ。

 かつて映画や演劇を論じた新左翼のイデオローグ、とくに日本赤軍の一員としてラディカルな運動への実践と理論を担った松田政男は「風景論」を提唱したことがある。その代表作の一つとして論集『風景の死滅』は少し前に増補新版(航思社)がなされた。そこでは、永山則夫連続射殺事件のドキュメントを撮るために、軌跡を追ったエッセイがいくつか綴られる。そこで見つけられたのは、もはやかつての日本的な風景などというものはどこにもないということだ。それは通俗的な貧困が犯罪を犯したという図式を転倒させた。もはや地方や地域と都市に差はなく、そこでフィルムで撮られた風景は、どこで撮っても同じ変哲のないものしか残らなかった。松田は、吉本隆明の「情況」からの離脱として、その風景を写すことによって、風景にこそ潜む、たとえば国家であったり、暴力であったり、権力の姿を捉えるべきだと言った。理論として突き詰められたものでないにしろ、日常へと立脚した情況の吉本に対して、それは別の側面を提示した。むしろ、風景そのものを捉えることが、表象に覆われた世界をさらけ出すというように。

 むろん、この『景観の邪魔』という作品を、現代の風景論とまで昇華させることはできないだろう。しかし、すでに行われたオリンピックを振り返り、風景がもたらした世界を想像させることは、新しい若い世代の感覚ともいえる、予兆としてある。いわば、それは荒廃でもなければ、発展でもない。SFらしく土地の神などが出てくるが、東京の諸地域がかつての華やかであった記憶を楽しげに残すものではもうないのだ。オリンピックの起こったあとの世界からオリンピックを見ることは、もはや茫洋とした眼差ししか残していない。それは、確かにあったが、しかし、今となっては日常のなかで、何ということでもないものとなった。そのどうでもよいようにしか映らないものに対して、これからオリンピックを迎える現在の視点は、なにを見ることができるのか。

 一見するとオリンピックに賛成や反対、もしくは肯定的でも否定的でもない。景観が変わった様をのべているだけだ。もはや東京への執着も消えて、かつて何かがあって、彼らは変わりようもない日々を、ふとしたことで記憶を思い出して、あきらめがちに過ごす。その「風景」が淡々と述べられるのだ。その意味では、これは政治的ではないが、しかし、風景という政治的ともいえる視点が潜む。

 60年代の東京と2020年の東京のオリンピックは、むろんさまざまに違うだろう。かつてのナショナリズムの祭典は、いっときの活気はあっても、なんらかの意義を今度はみないだろう。実際、東京の都市空間の変容は、じつはもはやどのような大規模商業施設が経とうと、どのような構造ビルが建設されようと、象徴的な意味をみない。だから、景観は破壊ではなく、邪魔なだけなのだ。それは一周回ったかのように、風景の時代を引きつけている。


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