「松本雄吉と維新派の世紀(3)」 アートの動物学(6)  『テアトロ』2017年2月号

アンダーグラウンド演劇としての維新派

 およそ20本ちかくの維新派に関する映像が、大阪や東京などで上映された。そこには維新派という名前になる前、日本維新派時代の作品を撮ったフィルム映画、『足乃裏から冥王まで』なども含まれていた。上映された多くの作品は、90年代以後、現在の維新派の作風となったもので占められた。だが、「ヂャンヂャン☆オペラ」と呼ばれる形式となる以前の作品は、維新派の表現の転回を知る上で貴重なものだった。

 その頃の作品たちの特徴を一言で言うなら、典型的ともいえるアンダーグラウンド演劇や暗黒舞踏の表象であり、さらにそれをもとに突きつめようとするラディカルな表現だった。土着的、もしくは生々しい肉体、日本的なものへの憧憬を浪漫派的に散りばめること。そもそも名前である日本維新派からしてそうだが、ナショナリスティックかと思われるほどの日本的なるものの表層のイメージが舞台にはあった。新左翼と日本浪漫派の背反的な関係と言ってもいい。東京と比較してみると、まだ関西には学生運動やアンダーグラウンド演劇、暗黒舞踏への希求が残っていたとしても、80年代後半になると衰退感は拭えない。だが、関西の表現の場では、周辺であるがゆえに様式への追求が、まだ残っていたのではないか。

 たとえば『足乃裏から冥王まで』は、野外で公演されて、刀や学生服のような服装もあり、最後のシーンのあたりでは実際にセックスが行われる。それこそ動物的とでもいえるような人間の身体を露呈させることを目論んでいるように。

 また80年代の維新派の舞台である『つばき式・月光のシャドウボール』を撮影した映画『阿呆船 さかしまの巡礼』も、フーコーの『狂気の歴史』における狂人をアンダーグラウンド演劇的な誤読をもとに、狂人礼賛とでもいえる見世物にする。その舞台表象には、暗黒舞踏のように白塗りの狂気を纏わせた肉体がある。それは時代の産物であり、特異な表現とは言えない。しかし、なぜ初期の維新派の表現がこのような形態だったのか、後期作品との繋がりを考えると興味は尽きない。

 ここから先は、その他の作品や化身塾という名で活動していた頃の映像はないだろうから推測するしかない。「ヂャンヂャン☆オペラ」のような形式は、アンダーグラウンド演劇や舞踏という様式化されたリミットの飽和点として、その要素の一部は残したままで、大衆化へと転向したのではないか。むろん、そこには他からの影響も類推できる。

 たとえば、松本雄吉と美術の関係を論じる際には、なぜか1950年代のアンフォルメル運動である具体美術協会の影響の話しかほぼされない。しかし、これは後期の維新派の作品の形態としては遠く離れているし、その内在的な理論としても外れている。単に関西という地域と前衛的な表現を何も考えずに一括りにしたものにしか映らない。少なくとも、ハプニングやアクション・ペインティングの要素は、後期の維新派の表現の形式とは遠い。また、60年代から70年代の具体は大阪万博でのパフォーマンスの頂点と終焉という結果を見ればわかるように、前衛表現としては60年代には批判的な対象となっていた。それはハンパク運動に参加していた松本雄吉を考えればわかる。たとえ、松本が『維新派大全』のインタビューで美術を志すきっかけの一つとして具体の話をしているとしても、それはあくまで初発の動機の一つだろう。

 実際、他のインタビューでは60年代のアメリカのポップ・アートへの興味を語っているし、「ヂャンヂャン☆オペラ」が80年代末ぐらいから始まることを考えるならば、むしろロバート・ウィルソンの『浜辺のアインシュタイン』に代表されるように、ミニマル・アートやダンス、ミュージックなどのミニマリズムと類比的に考えた方がいい。(もちろん、松本がそれらの作品を見ているかは別の問題だ)。ミニマル・ダンスのように、ある運動の規則性の中に、反復的に差異を挟み込みながらズレを示す身体のムーヴメントは、維新派の動きとも近似的な要素をもつだろう。もちろん、維新派の場合はそこにミニマリズムが拒絶したシアトリカリティが、演劇的な物語を含め厳然としてあるから、ミニマル・ダンスとは呼べない。音楽も変拍子にばかり目がいくが、その切れ目なく続くような反復性は概念だけならばミニマル・ミュージックを彷彿とさせる。それらに還元することはできないが、比較の対象としてははるかに相応しい。

 そして先に述べたアンダーグラウンド演劇の肉体や言語の表象は、脱色される形で残っている。音節化された言葉がセリフの合間に挟まれるし、白塗りの身体などはその最たる例だ。だからこそ、その表現の転向は、アンダーグラウンド演劇の大衆化であると同時に、新たなるオリジナリティの創出となった。

再びアジアへ 『アマハラ』

 これらの帰結として、最後の作品となった『アマハラ』について考えてみたい。そこには遥かなる古代の時間軸と、望郷の念を抱かせるほどの距離という二つのものが重ねあわされている。古事記に描かれる高天原(たかあまはら)から取られたであろう『アマハラ』という名前は、平城京跡地での野外公演という場所とも相まって古代と現代の結節点のように浮かぶ。二十世紀三部作『台湾の灰色の牛が背のびをしたとき』というアジアをモチーフにした作品の一部が再構成されて入れ込まれるが、完全に新作に映る内容となっている。

 観客席は落ちる夕日を山々の向こうに見るような形で西向きに設えられている。船を模った舞台機構は、それ自体が航海をイメージさせる。今となっては一面に広がる葦原だが、奈良の山々のはるか向こうの海へと向けて、葦の海原を行くようだ。

 物語の背景は、主に戦間期から戦時期の日本。侵略的な膨張主義と裏腹な関係を結んだ南洋への民間人の進出。描かれる一般市民の姿は、見知らぬ土地へと赴き、日本への思いを抱えながらも開発を続けたものたちだ。貧困ゆえに土地や商売を求めて、別の土地へと旅立つ移民や労働者たち。現地では日本人街に代表されるように、苦しさの中でも快活に生きる姿がある。いわば人が集まり街となれば、からゆきさんもそうだが様々な産業が生まれる。むろん、それがどれだけ、かつては牧歌的で国際的に合法であろうと、二次大戦期には植民地化を求めようとする侵略的な政治状況となっていくことは看過できない。

 だからこそ、南洋の島々で労働をする日本人たちは、見ているものにとって印象的に映る。たとえば、大きな野外劇場で映画のセットのような大規模な足場が組まれた道路建設のシーンは、この作品の一つのハイライトだ。最初のシーンでは葦原と山々、もしくは再現された平城京の一部が美しくはえるパースペクティブを存分に使って、パフォーマーたちが配置されるシーンが続く。それはシンプルだが確かに美しい。そして物語が展開されると、具体的な描写が維新派の身振りや音楽とともに現れる。

 そこからは単なる美しさではなく、時に連呼される数々の南洋の島々の名前もそうだが、激戦の果てに壊滅していった前線地であった戦争を思い出させる。いや、南洋の小島の名前からイメージされるのはそこしかないと言ってもいい。戦争に入る前だと民間の労働力としてインフラの整備に当たったものたちもいるが、−−−−確かに未開発の地域に初期資本と労働力の投入は一見すると多大な貢献をするが−−−−それは将来的な搾取のためともいえる。南洋への進出は、一例だが二次大戦期に戦火に巻き込まれて何万というフィリピン人が巻き添えで亡くなっていることも思い起こさせる。これらの事実は、かつてそこで暮らしていた日本人について、単に離れた場所から考える、というだけで消化できないものだ。

 だからこそ、この作品も古代と現代の歴史軸のノスタルジアや距離という儚さの中だけでは終われないものを残す。いわば、望郷の念だけに解消できない。唐十郎の初期にしばしば現れた、幻の満州も同じだろう。失ったものは、同時に浪漫派的な日本の創出でもある。その名残のようなものは、この作品にも顔を出す。

 そのように見ると『アマハラ』は、やはり日本という場所から見たアジアへの思いであり、アジアそのもの、もしくは日本を相対化することではない。古代に南洋を渡ってきたものと、南へ向けて進出したものたち。この目線のもとにあるのは日本から見たという地点であり、20世紀三部作で描かれた台湾や日本の方が、アジアそのものは20世紀の世界のなかで相対化されていた。少なくとも、地勢図や歴史で考えるならばそうなる。むろん、アジアがテーマではなく、日本なるものがテーマと言えばそれまでだ。だが、それは典型的に日本におけるアジア主義のカテゴリーの一端に当てはまるアジアである。

 『アマハラ』というタイトルにもあるように、平城京の跡地で見えた日本は常に浪漫的な憧憬の地としてあり、日本的なるものとして創られる。それが、アンダーグラウンド演劇のリミットを持ち続けて、超えられなかった松本雄吉の姿だろう。


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