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三角関数とケンちゃんと僕らなりの普通

高校生ぶりに数Ⅱの勉強をしている。資格でも取ろうと書店で参考書を買ったのがきっかけだ。熱いコーヒーを淹れて、ページをめくる。

それとなく見たことのある文字列が並んでいる。サイン、コサイン、タンジェント、正弦定理、余弦定理、ピタゴラスの定理。20年ぶりに再会した彼らをひとつずつノートに書き写していく。なんだか古いアルバムを眺めているようで不思議と嬉しくなる。

数式を解いていたら、ふと当時の教室のにおいがした。おなじ公式を使っておなじように計算をしていた、あの頃。急に感覚だけタイムスリップしたみたいに記憶がよみがえる。

中庭の木の葉が風でこすれる音、ちょっとだけ暗い蛍光灯、前の席の誰かの汚れたスニーカー、机の温度、シャーペンのグリップの感触、ワックスをかけたばかりの床、それから、隣の席で頭を抱えるケンちゃん。ケンちゃんの足元にある、僕とお揃いのエナメルバッグ。すぐそこにあるみたいに思い出す。

ケンちゃんは入学当初から部活動のチームメイトで、たまたまおなじクラスになり、隣の席になった。元々仲が良かったのもあって気恥ずかしかったのを覚えている。彼は図体がでかいから、学ランを着ると黒色の面積が大きすぎてツキノワグマみたいに見えた。その熊みたいな奴が、計算の公式を思い出せないのか、問題用紙を睨みつけたまま固まっている。そういえばケンちゃんは運動はできたけど、勉強は不得意だった。

「三角関数っていつ使うんやろ」
僕とケンちゃんは放課後の部室で話したことがある。理系を選択しておいてずいぶんと横暴な言動だったと思う。僕が「いつやろなぁ」とから返事をすると彼は続けた。
「普通に生きとったら受験以外ではたぶん使わんやん。サインコサインも、すいへーりーべーも、ありをりはべりいまそかりも」
「そやなぁ」
「普通以外のことを知らんかったら、普通でおることすら許してもらえんのかなぁ」
隣のツキノワグマはそう言ってボールを手に取って、指先でクルクル回しだした。上手な回転だった。
「俺、普通でいいのになぁ」
ボールが床に落ちたけど、ケンちゃんは拾いに行かず部室の天井をぼんやり眺めていた。

卒業式の翌日はよく晴れていた。僕とケンちゃんは同級生たちとカラオケに行って、その帰り道でふたりになった。「寂しくなるね」と口を揃えて言った。僕は東京に進学を決めていて、彼も県外の大学へ行くことになっていた。あと数日経てばしばらく会えなくなる。
「今日カラオケで“あなたに会えて本当に良かった”って歌ってたやん、小田和正の。あれな、ほんまに今そう思う」
それから「ありがとうな」と言って、僕らはぎゅっとハグをした。長い抱擁だった。ケンちゃんの体は温かくて、このまま離れたくなくなるほどだった。

そこから上京するまでの間をどうやって過ごしたのか、あまり覚えていない。結論から言うと、僕とケンちゃんは付き合うことになった。彼が元々男を好きだったのかどうかは分からない。僕にも迷いはあったけど、お互いが好きだということで、そういう関係になった。

でも1年くらい経ったとき、僕らは“普通”になりたくなって別れることにした。「会うともう“普通”ではいられなくなるから、連絡を取り合うのはやめよう」と言われた。僕は軽率に「わかった」と答えたけど、すぐに後悔した。あれからメールを送っても電話をかけても、ケンちゃんは一切反応しなくなった。20年経った今でも、連絡が取れたことはまだ1度もない。

サイン、コサイン、タンジェント、正弦定理、余弦定理、ピタゴラスの定理。ノートに数式を書きながら、ケンちゃんのことを思い出す。僕は結局“普通”にはなれなかった。彼が今頃どうしているかはわからない。ただ僕はケンちゃんのことが本当に大好きだった。10代の僕らは“普通”に打ち勝つことができなかった。

三角関数なんて普通に生きていたら使わない。でもきっとそれは、三角関数を使わない生き方を選んだだけだと、今では思う。

これからの僕らは自分なりの“普通”をアップデートしないといけなくて、その為には今“普通だと思っていないこと”も沢山知らなくちゃいけない。生き方の選択はいつも、その先にあると思う。

そんなことを考えていたらノートに書いていたペンのインクが切れた。僕は冷めたコーヒーを飲み干し、参考書を閉じて、この文章を書いた。

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