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赤道を横切る:第1章 出発

書こうか書くまいか、今度の紀行文はだいぶ考えた。だいたいが観光旅行で調査研究を目的としなかった事、あまりに広範でまとまりをつけにくい事、近頃南洋といえば流行物でかなりに色々な印刷物もできている事などと数え立てては、つい億劫になって筆をとる気持ちにならなかったが、帰台後各地の講演会で時間の制限を受け(制限を受けざる場合といえども聴衆の迷惑を察し)充分に感想を述べ尽されなかった事、最近台湾新聞社から南洋に関する懸賞論文の審査員を依頼され、少し目を通して拝見におよぶと、南洋を知らぬ人が地理書で南洋を語っている。どうもピンと来るものがない事、同行者ないし知友からしきりに催促を受けることなどに刺激され、ようやく越年後その気になったような次第。「遅なりしは拙者の不調法」、ひらにご容赦を願いたてまつるとして、さて審査員出品としての価値ありや否やははなはだ疑わしい。

南洋には大正2(1913)年の暮れ、台銀時代に一度シンガポールまで出かけた。それは大蔵省から検査に来られた松本修氏一行のお供をして在外店全部を一巡した際の事である。当時ジャワには台銀支店なく、シンガポールから香港に引き返すと共にただちに上海から九江、漢口に向かった。いろいろの意味において南洋にはぜひ再遊を試みたかった。多年翹望【ぎょうぼう:その到来を強く望み待つこと】の南洋、それも暹羅【シャムロ:タイの旧称】、仏領印度【フランス領インドシナ:現在のベトナム、ラオス、カンボジア】までを含んで40余日とあっては是が非でも参加しなくてはならぬ。幸い会社も創業満二十年の記念日を迎え、二十年史も脱稿した。この機会を逸してはおそらくは生涯を通じて絶望であろう。9月30日が決算日、10月が総会月で、二十年来一度も総会を欠かした事のない自分であるが、今年は病気にでもなったと思って辛抱していただくほかはないと、御同役の承認を得てようやく決心ができた。かねて主催者側からも勧誘を受けていたので、10月に入りて後ならばと生返事をしておいたところ、10月も10月、その第一日発程とあって、いささか面食らい、その前日遅くまでかかって決算事務を片づけ、出帆間際にヤット駆けつけた。

すでに季節は10月に入っているのに低気圧襲来の警報で各船出帆を見合している。基隆【キールン】港は例の細雨霏霏【ひひ:降りしきること】ではなくて、何となく物凄まじい暗雲低迷、不気味な雨が横降りに吹きつけられている。新装なったとは言うものの内台定期船を見なれた眼には何となく心細い鳳山丸に乗組み、松岡社長はじめ見送人のゴッタ返す中で悲壮(?)な挨拶を受ける。それと同時にいや応なしの団長を押しつけられ、さっそく一場の挨拶なり答辞なりを述べねばならぬ段取りとなったが、まだそれどころではない。いったいこの船は赤玉警報の最中に出帆するのか否か気にかかるが、本船側はいっさい頓着なくハヤ見送人追出しのガンガンが鳴る。これにおいて我輩がぜん大声を張り上げ、団員に対しては「今から外国に出るのだ。日本人たる体面を保持することに留意されたし」、主催者に対しては「多大の犠牲を忍びこの画期的計画を遂行せられたる努力を感謝する」意味の口上を述べ、午前10時45分雨に濡れたテープも痛ましく、岸壁見送人中夫人とは見えぬ阿娜【あだ】者はだれの為かなど、いささか疝気に病みながら勇ましく基隆を出帆したまでは良かったが、防波堤を出るか出ぬかに大きなうねりが襲来した。コハ只事ならずと思う間もなくドット甲板を洗う始末に、今まで南洋はひと呑みにするような事を言っていた連中も慌てて船室にもぐり込む。松岡社長の口ずさんだ「久待扶揺万里風」にしては少し烈しすぎる。

我輩の船室たるや一等室第一号とあって右舷中央の一室、正面と側面とに明り窓もありまず本船としては最上等のものらしいが、主催者側で団員割り当てに苦心の結果、上田光一郎君一人だけを持て余し我輩の室に収容方を懇請せられた。その結果各室とも二人ずつとなったにもかかわらず(二等室に廻された方々もあるがかえって二人で広々している)肝心の第一号だけが三人詰め込みとなるわけだが、そこは団長、率先衆に範を示すはこの時とばかり快くOKと承諾はしたものの上段には小田定文博士、下段が我輩、上田君は年少の故をもって秘書格待遇でソファーを占領、百万長者に対してまことにお気の毒だが致し方もない。もっとも同じ松班でも明り窓なしの室もあるのだから不足も言えぬ。

鳳山丸:大阪商船の貨客船。川崎造船(神戸)で造られ、1907(明治40)年4月に進水、2347トン、 91.44(長さ) x 12.50(幅) x 7.32(喫水)メートル、速力は12ノットと記録にある。1940(昭和15)年11月30日、南日本汽船(基隆)に売却され、1944(昭和19)年11月22日、台湾東方沖でアメリカ潜水艦(SS395)レッドフィッシュの発射した魚雷を受けて沈没した。楽しかったこの南洋航海の8年後には、鳳山丸にも過酷な運命が待ち受けているとは、誰も知るよしもなかった……。

いよいよ旅立ちだ。なんとも慌ただしいかぎりだが、祖父・三巻俊夫の巧まざるユーモアのセンスがここにも現われている気がする。

本書は著作権フリーだが、複写転載される場合には、ご一報いただければ幸いです。今となっては「不適当」とされる表現も出てくるが、時代考証のため原著の表現を尊重していることをご理解いただきたい。

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