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赤道を横切る:第5章 海口 

10月6日いよいよ船齢29年の老嬢、鳳山丸の南洋処女航海が始まる。午前中二等サロンで漏れなく種痘の強制執行が行われた。種痘証明がなくては仏領インドシナに上陸できぬからである。馬鹿にしてかかった連中いずれも相当の年輩で善感【ぜんかん:種痘の接種跡がはっきりと付いて免疫が獲得された状態】などありそうにも見えなかったにも拘らず、二三人は見事に手ごたえがあったのだから油断はできぬ。

午前10時52分海南島東北タヤ島13カイリ沖通過、南水道に向け転舵、この日軽風平穏気温82度、午後1時36分進路を海口港外に転ず、先ほどから海南島が見えた見えたとやかましい事だが、その海南島が一帯の白沙で山らしいものも見えず、何だかノッペラボーで捉えどころもない。ようやくパゴタのようなものを発見する。これこそ有名な瓊州塔【けいしゅうとう】であろう。
海口沖近くなった頃日本のトロール船がただ1隻本船に接近し来り、汽笛を鳴らしハンカチを打ち振る。一行も劣らず万歳を叫び交わして別れる。天涯万里同胞こそ懐かしいものである。

午後4時海口を正南に見る。五指山も薄く現れてきた。港口に近く市街の一部も見える。勝間田翁は何処かなどと思い煩いながら上陸不能を今更のように残念がる。折から碇泊中の日本軍艦芙容【ふよう:日本海軍の駆逐艦】から一隻のモーターボートが矢のように走って来る。さては何かの通信かと早速慰問品卸し方の用意などしたが、やや本船に接近して陸兵まがい服装をした水兵らしきものが万歳万歳と連呼しただけでアッケなく立ち去った。その際「速やかにこの近海を立ち去るべし」との手旗信号があったと伝えられたがその後佐藤船長にただしたところによれば「そんな信号はありませんでした」と言う。どちらが本当か分からぬ。香港で総領事に「海口にはまだ日本の軍艦がいますか」と尋ねたとき「日本軍艦の行動は語れぬことになっている」と他人行儀に答えられたのを思い合わせ、何事も機密の世の中だから不言に限ると考えた(しかし今日となっては最早差支えあるまい)。

憧憬の海南島を後に、午後4時40分西口マンドリン角3カイリ半沖を通過して海防に向かう。午後班長会議を開催して各種の申合を行った。

申合事項
航海中毎日午後夜間各種の催物をなすその計画並びに斡旋は催物委員において之を行う
船内各種備付図書は無断にて閲覧することを禁じ図書委員の管理貸出に従うこと
食事に関する希望等は食卓委員に申出られたし。尚食堂は左の通り時間励行のこと
松竹班 B組食事開始後30分後は入室謝絶
梅班 開始後一時間を経過せば断然棄権と認む
集合時間厳守、出発及び自動車汽車等乗降の際は各班長速やかに人員点呼をなし坂本本部班長に報告し、殊に陸上においては帝国国民として国際紳士としての体面を忘るることなく自重自戒言動を慎まれたし
船内においては風呂便所椅子等の設備及び器具の使用に関し各班所定のとおり厳守し他を犯さざること
船の内外を問わず粗暴なる言動をなす如きものは本団体に絶無なることを信ずるも時局柄特に注意ありたし、ブリッジ(船長室およびその付近)には絶対に出入を禁ず、航海の妨害となり大なる危険を醸す処あればなり、船内にて理髪洗濯などを命じたきときは伝票を用うること、伝票は一定の備付物をその都度必ず使用すること

粗暴なる言動をなす者云々の一項は香港において日本の小銀貨を受け取らぬからとの理由で新聞売子を撲った団員があるというところから注意事項となって現れたのだが、マサカそんな乱暴を働く男が一行中にありとは思えぬが随分気短でわがままな人はないではないらしい。右の外公表されている予定のコースはなるべく実施するから特別行動は遠慮されたきこと、各地通過を異にするからその両替は小遣いの程度だけは本部で斡旋することなど伝え、更に各係の分担をなす事とし各班からの申出により左の通り決定を見た。

催物係 係長 森忠平
日垣太市郎 筒井諒齊 楊天賦 大野喜八 岩佐平三郎 周英 陳渠卿 張叔荷
食卓係 係長 井上信司
澤村保 呂季園 石井保雄
図書係 係長 市川純一郎
十川七十二 深谷政治 山本茂一 張銀渓
両替係 係長 森忠平 (シンガポール以降 池田佐一郎)
風紀係 係長 小田定文

この夜、台北のラジオを聴く。ただし時間は東経105度の標準時すなわち30分後退となる。

写真は、鳳山丸が出会った第16駆逐艦「芙蓉」。若竹型駆逐艦の7番艦。昭和18年、米国潜水艦の雷撃により沈没。

この日は、香港を出発してベトナムに向かう航海だ。本来は、海口に寄港する予定だったが、『はしがき』でも触れられていたが、北海事件【ほっかいじけん:1936年9月3日に起きた中国広東省北海(現在は広西チワン族自治区に属する)における日本人殺害事件】の影響で、素通りせざるをえなかった。
申し合わせ事項として、行動規則や催事、食卓、図書、両替、風紀の係を決めたり、何やら修学旅行を思わせてユーモラスだ。

本書は著作権フリーだが、複写転載される場合には、ご一報いただければ幸いです。今となっては「不適当」とされる表現も出てくるが、時代考証のため原著の表現を尊重していることをご理解いただきたい。

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