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赤道を横切る:第3章 広東

夕刻汕頭【せんとう、あるいは、すわとう】沖通過、十六夜の名月を船窓から眺めつつ本船は14ノットの快速力で遅延を挽回し、予定のごとく翌10月3日払暁、香港東口東龍角灯台通過、港内深く進入する。絶えて久しき香港女皇の姿は昔に変わらねど山上遥かに道路の開鑿【かいさく】されたのが目につく。午前7時桟橋繋留、基隆より478カイリ。商船会社勝沼店長、楠本、藤井その他の方々に出迎えられ、さっそく広東行きの手筈を打合せ、ランチで九龍に向かう。そそり立つピークの影に立体的の市街が夢のように浮かぶ。上陸第一歩しどけない和服姿の日本婦人を見つけたが何となく調子が合わぬ。九龍は最近急激に発展し市街も延長して住宅区域も拡大された。ペニンシュラホテルなどという大ホテルもできている。広九鉄道は再三お馴染で別に洋行気分になれなかったが車体に「飛箭」と大書きし(Flying Arrow)と注釈がついている。

午前8時30分発車、駅を出ると間もなくゴルフリンクスが現れる。邦人経営のそれらしく一見平凡で物足らぬ。深圳駅から広東省に入るのだが、線路沿いの道路が舗装で線路沿いの道路がたちまち舗装でなくなるなぞ実に現金なものだ。

沿道の風物水田あり小松あり、また栴檀【せんだん】あり榕樹あり、「カムチヤ」あり「ゆうかり」ありで少しも異国情緒とやらが出て来ぬ。左腕に「憲兵」と記した兵隊が鉄砲を肩にして列車内をしきりに往復する(後に聞けばそれは省政府から我々一行を護衛するために派遣されたものであった)。今行ったかと思うとまた引返す。少し煩わしい位に出没する。

平湖駅で「打倒日本帝国主義」の貼紙を見たが、概してよく取締が行われ、盛んに「禁止標貼」と記した紙片が張り出されている。やがて広東の飛行場が間近に見えると兵営らしいものが続く。午前11時25分大沙頭着、在留邦人各位の出迎えを受けながらプラットフォームに降り立ったが、一行に対する警戒の厳重なること、あたかも高貴の御成りと同様の有様、憲兵20人、警察官15人で我々を取り巻き、一般市民を接近せしめざるよう最善の注意を払う。かくて30余台の自動車に分乗終るやオートバイ、サイドカーの爆音勇ましく警部級の司令を先頭に長堤に向かう。市中の警官また平日より増員せるものの如く、辻々はもちろん要所々々にあまねく配置されて、車馬行人のみか軍隊をさえ停止せしめている。ちょっと景気がよいもので無性に嬉しがっている者もある。

沙面東橋で下車、我ら数名は広東総領事館に中村総領事を訪問して敬意を表し、一行の後を追って沙面を一周、ビクトリアホテルに赴く。総領事はじめ主だった邦人も参加され、歓迎でもなく、招待でもない食費持ち寄りの午餐会が開催される(この方法は主客とも迷惑少なくかつ会談の機会を得て至極妙案であると思う。後述バンコクにおける茶話会と共に団体客接待の際における心得としたい)。

席上中村総領事は我輩の懇請に対し、最近の広東事情につき一場のスピーチを試みられた。その梗概は、由来広東よりの留学生は英米に赴く者多く自然その勢力が伸びて生活様式も英米スタイルなる事、九龍半島の租借地は60年後の期限において果たして支那に還付するや否や、英国側は広九鉄道を粤漢鉄道と連絡せしめんとし、支那側は現に黄浦【オンポ】に三百万元を投じて築港し香港の繁栄を奪わんとする計画ある事、最近広東には中央政府の勢力及ぶに至り、仮令偽装にせよ追々親日的態度を採りつつある事、過去において軍隊を養い過ぎた広東も近来逐次悪税を廃しつつある事、台湾との貿易も従来香港経由にて相当に行われ来たりしも黄浦築港の暁は一層好転すべき事、在留邦人400人籍民を加えて600人(支那人の妾となれる者100人位)なる事等であった。

広東は陳齊棠に代わり餘漢謀の管理下に置かれているが、蒋介石も近頃まで滞在して南北統一の工作を施した。北海事件の直後といい、我々一行に対しては精一杯の誠意を披歴したものと認めてもよい。しかし見ようによってはかくの如く最善を尽くして保護に任じているという宣伝に用いられた事になったのかも知れぬ。

広東は紀元1842年の開港、南支第一の大都会で人口百万と称せられ貿易年額二億円に達している。また中国革命の祖孫文の出生地として南方文化の中心でもある。市況殷賑【いんしん】、商売櫛比、喧噪昼夜を分たざる巷である。以前我々の知る広東市街はいわゆる肩摩轂撃【けんまこくげき:往来が激しく、混雑していること】で辛うじて轎【きょう:駕籠のこと】を通ずるにすぎなかったが、現在においては思い切った市区改正により、自動車の交通自由であるには驚いた。

食後一行は再び厳戒裡に行進を起こし、沙面西橋より十八甫、大平路、恵福西路、中華中路、恵愛中路、永漢北路などを通過し、財政庁、憲兵隊、省政府、市政府などを望見して中央公園内中山記念堂前下車、総領事館猪股部長の説明で館内の結構を一覧させて貰った。昭和7年の竣工、座席四千を有する大殿堂で一本の支柱もない。雄大にして華麗、まことに新興広東の意気を象徴するもの、以前広東に遊んだときは五百羅漢で有名な華林寺や(そこにはマルコポロを彫刻したと称せらるる羅漢もあった)花塔で名高い六榕寺なぞを案内されたが、時勢の変化は見物のプログラムまで現代式になってきた。

舞台正面には孫逸仙の大肖像を掲げ、その底部には例の遺訓が筆太に記されている。辞去するに際し、団員一同肖像に向かって整列、我輩の「孫文先生に敬礼」の号令とともに敬意を表した事は、警衛の任に当たって居った警察官や新聞人に多大の好感を与えたらしかった。

次の観音山の五層楼(これも以前わざわざ轎に乗って半日がかりで見物に来た明時代の建物)を横目に見て中山記念塔に登り市内の眺望を恣【ほしいまま】にするという段取りであったが、実は塔下から、アレが花塔とかソレが先施【センシー】とか聞いている内に時間が経過し、多数団員が螺旋形の階段を下りて来る頃上りはじめると、其また螺旋形が、ぐるぐると何処までも続く。よい加減のところから眺望して引揚げるつもりでいると、一向窓らしいものもなく、ヤケに登りつめて今少しで頂上とおぼしき頃塔下では切りに集合出発を相談しているらしい。一人取り残されては大変と八合目あたりから逆戻りとサッパリ気の利かぬ事であった。

かくて我々の一行は再び乗車、郊外に向かって進む。途中女学校の門前を通過する、何か催し物でもあるらしい様子であったが、通行の女学生はボーイスカウト風の服装ですこぶる活発に見受けられた。見よ、胸を張り手を振って堂々と闊歩しつつある有様を。我輩は彼女達の凛々しい姿を車窓から瞥見しただけでドイツ夫人の意気込みを連想し、「支那の文化は南方より」の感を深くした。侮るべからざるは若き群の自覚である。

間もなく東山の七十二烈士墓前に到着、下車してこれを弔う。これぞ宣統3年3月29日の革命党黄與一派が西広総督衛門を襲い、衆寡敵せず全滅の悲運を見た。その革命の第一声を放った烈士を葬った場所である。

それより程遠からぬ場所に十九路軍記念碑がある。その入口に「十九路軍抗日陣亡将士墳園」と題してあるのはいささか目障りだが、彼らもまた祖国に殉じた勇士である。その他五烈士とか碧血丹心とか御手のものの佳句麗辞の標柱が立ち並んでいる。
さらに市中に引き返し、東沙馬路、大東路、永漢北路、大甫路、大新街などを通過し、以前にはなかった海珠橋を見て大沙頭站に帰着したが、如何にもゴミゴミとして人間の多いのには呆れた。

駅には小田博士見送りの博愛医院看護婦(それは台湾から派遣されている)4名が懐かしそうにしている。多数邦人の心からなる見送りを受けて発車したが、慌ただしいうちにも能率をあげた視察ぶりであった。駅頭所見の一つ、支那では自動車の事を汽車という。計程汽車とはメートル制の意味か、「汽車勿進」は「自動車入るべからず」。さて本物の汽車は火車と称す。支那新聞に一行の記事あり。参考までに。

臺灣攷察團抵省
臺灣新聞社約同臺中市之各界人士、組織華南及南洋各地視察団、参加者共計八十余人、由日人三巻俊夫為領隊、于二日乗鳳山丸抵港、扜以広州為南中国第一都会、特連同于昨(三)日清晨、乗広九路早快車頭二等來省観光、上午11時30分抵歩、広東省警察局及憲兵司令部事前得接消息、為続密保護計、特派出督密偵緝及憲兵凡数十人、陪同遊覧本市各地名勝、当出発時、由交通督察数員乗機器脚踏車為先導、其餘憲警則分左右及殿後随護、沿途徑過各分局地段、均加派武警站崗、直至下午四時五十分、該帮攷察團始仍乗廣九尾車返港。

また國華報という新聞は中山記念堂まで追っかけて一行全体のほか我輩までを特別撮影して掲載して居った。(それは後日同地の山田台銀支店長から送付されたので知った)時節柄注目を惹いたには相違ない。

三巻俊夫は、台湾銀行時代、汕頭支店長を務めていたこともあり、広東・香港あたりは何度も訪れていたのだと思う。写真は、自ら撮影した広東の沙面にあった日本人幼稚園で遊んでいる子供たちだ。沙面は、鎖国時代に西洋に開かれていた港で、日本をはじめ各国の大使館や領事館が集まる外交地区だった。

本書は著作権フリーだが、複写転載される場合には、ご一報いただければ幸いです。今となっては「不適当」とされる表現も出てくるが、時代考証のため原著の表現を尊重していることをご理解いただきたい。

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