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サタデー・ナイト・フィーバー:青春の挽歌

サタデー・ナイト・フィーバー
1977年 アメリカ映画
原題:Saturday Night Fever

フー流独断的評価:☆☆☆☆

1977(昭和52)年は、僕が大学を卒業した年だ。『サタデー・ナイト・フィーバー』が日本で公開されたのは翌1978年。そして初めての海外に出て、映画の舞台であるニューヨークを訪れたのが1979年。悪友、夜遊び、アルバイト、恋愛、手ひどい失恋、就職などのキーワードが、当時の混沌とした思い出の中から脈絡もなく浮かんでくる。『サタデー・ナイト・フィーバー』は、『アメリカン・グラフィティ』と並んで僕の青春のイコン(聖画)でありレクイエムなのだ。

『サタデー・ナイト・フィーバー』は、わずか300万ドルほどで製作された低予算映画である。監督のジョン・バダムも主役のジョン・トラボルタも才能を認められながらまだ無名の時期だ。一番有名だったのは、音楽担当のビー・ジーズかもしれない。フォークロックからディスコへと路線変更したビー・ジーズの華やかながら何とも軽薄なダンス・ミュージックをフィーチャーした青春映画。当初の狙いはこの程度だったのだと思う。しかし、『サタデー・ナイト・フィーバー』には1970年代の歴史、文化、美学を代表する作品という役割を担うことになった。結果的には、製作予算の100倍近い興業収入を稼ぎ出すことになる。いやはや、映画の神の差配は底知れないものだ。

『サタデー・ナイト・フィーバー』を語ることは、ジョン・トラボルタを語ることにもなる。それは、『サウンド・オブ・ミュージック』におけるジュリー・アンドリュースであり、『アラビアのロレンス』におけるピーター・オトゥールである。『サタデー・ナイト・フィーバー』におけるジョン・トラボルタは、不世出の作品に呑み込まれてしまった悲劇のスターだろう。誰がなんと言おうとも、ジョン・トラボルタのキャリアにおける最上の演技は『サタデー・ナイト・フィーバー』の中にある。彼がディスコのフロアでソロで踊るシーン。あの決めポーズ。アップ・テンポのディスコ・ミュージックの中で、トラボルタのポーズ(静止)は、限りなく美しくセクシーだった。

イエス・キリストは大工の子供だが、福音を説いて神の子と呼ばれた。トニー(ジョン・トラボルタ)はペンキ屋の小僧だが、ディスコでは王と呼ばれた。トニーがディスコの舞台へ向かう時、客たちが左右に分れて道を作る。悪友たちはそれを見て、トニーはまるでモーセのようだと言う。モーセによって行方を阻む紅海が左右に分れて通り道になったように。イエスが棘(いばら)の冠を載せられて十字架にかけられたように、トニーはダンスのコンテストで偽りのチャンピオンにされてしまう。そこで彼は、自分が過ごしてきた刹那的な青春が偽りだったことに気づいて、新たな道を歩み始める決心をする。これこそ旅立ち、英語で言うところの終わりにおける始まり、"Commencement"なのである。

映画の中ではブルックリンから見たマンハッタンに二棟の世界貿易センタービルが建っている。その世界貿易センタービルも今はない。ジョン・トラボルタも当時の野生動物のような目を失い、肥満した人の良さそうなオジサン顔になってしまった。これを「隔世」と言うのだろうか。青春とは愚かなものだが、その愚かさも悪いものではない。人生とは常に幸福なものではないが、それもまた悪いものではない。このほろ苦さこそ、『サタデー・ナイト・フィーバー』がアメリカ国立フィルム登録簿に収載された所以だろう。

監督:ジョン・バダム
脚本:ノーマン・ウェクスラー
製作:ロバート・スティグウッド
出演者:ジョン・トラボルタ
音楽:ビー・ジーズ、デヴィッド・シャイア
撮影:ラルフ・D・ボード
編集:デイヴィッド・ローリンズ


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