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赤道を横切る:第12章 バンコク

やがて8時30分バンコク着、アングロサイアム桟橋に繋留する、サイゴンより715カイリ。何でも予定より2時間も早く到着したので出迎え邦人をだいぶまごつかしたらしい。それでもさすがに大阪商船駐在員宇田川定雄氏とエージェント英人だけは逸早く出迎えられた。続いて日本人会長鈴木宇治氏をはじめ三井店長平野郡司、三菱店長新田義實、中堂海軍中佐、田村陸軍中佐の諸氏ほか約20名ばかり同胞の歓迎を受けたことは誠に感激の至りであった。

午前中は宇田川氏からシャム事情を聴取し午後市中見物ということに決定、市中まで相当距離があるので乗物が自由に得られぬため流石の挺身隊も音なしの構えで神妙にしている。

宇田川氏の講話はまず貿易談に始まり、輸出は米、スズ、チークその他木材、ゴム、塩魚、家畜2億3000バーツ、輸入は食料品、綿織製品、金属製品、鉱油など1億7000バーツ(1バーツは金1円60銭)というあたりから、土産品にはチーク製の象2、3バーツ、シャムダイヤは1カラット80セントくらい、蛇、とかげ、鰐皮類、仏像、人形などあり。自動車は1時間1バーツ50セント、車は1キロ30セントと教えられる。

午後1時各班別の自動車に分乗、先頭に日章旗を押し立てて30両の行列を作ると一寸壮観でもある。名所見物は明日のことにして今日はサイトシーイングを兼ねて各所に敬意を表する段取りらしい。まず道順に従って田村中佐の官邸を訪ねる。競技場を前にしビルマネムの並木美しい住宅地帯、そ銖の競技場にはゴルフリンクスもしつらえてある。何と羨ましい場所柄である事よ。田村中佐邸はシャム貴族の邸宅であったとか三階造りの広壮な構え、万事が手綺麗にできているところに給仕のシャムガールが慇懃で淑やかなのも嬉しい。

次は中堂中佐邸に罷り越し、夫人令嬢などの歓待を受け日本公使館に向かう。マンゴー並木うち続く街道尽くるところ厳めしき鉄門に菊花御紋章燦として輝く、一同導びかるるままに階上広間に押し上げれば既にもてなしの用意あり。公使石射猪太郎閣下は先月下旬着任早々扁桃腺炎にかかり両三日前ようやく国書捧呈式を済ましたばかり、いまだ静養中を特に包帯首巻きのまま和服姿で現れ、一行のために一場の挨拶を述べられ、次いで森領事より大要次の如きお話を承った。

シャムは革命後立憲君主制となり、人民会議は勅選と間接選挙による民選とよりなる。国王は今年12才スイス・ローザンヌにあり。平素は皇族一人従臣二人よりなる摂政において国務を処理す。また国民院参議(20人)あり。国務総理のほか、内務外務財務大蔵国防文部などの各省を設ける。当国は由来英仏の間に介在し漸次厭迫の極み危機に瀕せしも、両国より顧問を入れ特殊の条約を締結せり。独立国とはいえ外国の力が多分に入り居る点単純にあらず。外交的にも経済的にもその発展は容易ならず。またこの国には支那人多く、日本品も華僑を通じて輸入する場合多し。日本への輸出は米を主として400万銖【しゅ:1銖は約7キロ、4銖が1石】、日本よりの輸入は綿布、雑貨など1200万銖、目下綿花栽培奨励中、日本より三原農学博士を招聘しその指導を受けている。道路はいまだ十分開けず、飛行機は欧州行き二日半の連絡あり。仏教は小乗なれども信者多し、黄衣を着するはみな仏教徒なり。入国税は100バーツを徴す。最近日本に軍艦機関車を注文せしは入札の結果なり。日本留学生は100名に及ぶ。要するにシャムはいずれの国とも仲良くするが、いずれの国とも特別に仲良くせぬ国なり云々。

卓上には色とりどりの珍果累々、台湾でお馴染みの釈迦頭【バンレイシ:台湾のフルーツ】や蓮霧【レンブ:台湾のフルーツ】もある。一同大喜びでご馳走になったはよいが、中に一人花瓶を倒して恐縮した者もあった。

大玄関で記念撮影後辞去、一行はここより更に市中並びに河向こうの視察に行く。我々本部員のみ正金三菱、三井などを歴訪す。正金は7月開業したばかり、中村豊秋、鈴木信治の諸氏大わらわの体で忙殺されている。三菱も三井もなかなか手広く営業して居らるる模様で大いに心強く感じた。先ほど聞いた軍艦は大小12隻で2000万円、機関車は8両で30万円くらいとの話であった。次に新聞関係として「シャムクロニクル」「シャムコンマーシャルプレス」「ゼネーション」の3社を訪問したが、いずれも愛想よく出迎えて工場など案内し、非常に喜んでくれた。英語は皆達者に話す。

これでひとまず帰船することとしたが、みちすがら寶亭【たからてい】と称する日本料理を見つけた。今夜の繁昌が思いやられる。5時本船帰着、この夜は午後8時海陸両武官から観劇の案内を受けているが、我々一部の者のみはそれに先だち三井の平野店長宅で特別のご馳走にあずかった。やがて定刻となって国立音楽舞踏学校附属劇場に案内される。

この学校は王宮専属の女優養成所ともいうべきもので、その演技は一般の拝観できぬ事となっていたが、近来は時折公開することもある。ただし観覧料はかなり高価であるため結局は特殊階級に限らるる事になるという。それもそのはず、その生徒こそ素性正しく眉目麗しき少女にして何れも良家の家庭より選抜されることになっている。この夜は両武官が一座を買い切ったというのだから豪勢なものだ。一行80人だけに見せるのはもったいない、在留邦人や日暹協会員、さては生徒の父兄母姉まで均霑【きんてん:平等に恩恵を受けること】して大賑わいである。

なお、この催しについては美術学校工芸部主任たる三木榮氏の斡旋も大に力あり。その美術局長や生徒の一部が先般日本観光に赴き、熱心なる親日家となり。「君が代」と「東京音頭」とを覚えて帰ったため、そのご披露を兼ねて特別奉仕としてこの一夕の謝金800円と告ぐる者があったが、それは両武官の話ではないから間違っているかもしれぬ。とにかく礼儀を知らぬ者はそんな内幕までご披露に及ぶから困ったものだ。

王宮に近いこの劇場は「シルバコン」と称されている。入り口には大日章旗とシャム国旗とを交差し「台湾新聞社主催僅暹羅訪問団観劇会」の立看板も今様でまず好感を与える。正面舞台近く貴賓席を占めた我々は先着の団員各位に対し相済まぬような気持ちで開幕を待つ。

見渡せば舞台に向かって左手には白衣の男子9人、舟形の奇怪の楽器や太鼓、木琴などを前に控えている。右手には白シャツ開襟の男子隊と青い上衣を着た少女隊12人のコーラス団がうずくまる。正面ボックスには洋式管弦団がバイオリンその他の楽器を手にしながら10人くらい、そのほかに更に10人ばかりの予備隊(?)も構えている。その物々しさは一行をして好奇の目を欹てしむるに十分であった。

中堂中佐勇敢に舞台に飛び上がり、田村中佐と共に台湾の諸君歓迎の心尽くしとしてこの催しをすることになったと率直簡明に挨拶を述べられると、たちまち一群の女優隊揚幕から現われ、正面に集結、まずシャム国家を斉唱する。一同起立して敬意を表す。神韻縹渺【しんいんひょうびょう:芸術作品の奥深い趣きのこと】、分からぬながらに感心する。女優隊は前列二人、後列六人の陣形となる。白シャツ、青ネクタイ、青袴、ほかに一名のアナウンサーは桃色の着物で何やら説明している。三木老の通訳によれば日本芸術を礼賛した後「これから日本で習い覚えた歌を唄います」との事、最初は東京音頭の歌詞合唱だが、「チョイとトウキオ音頭」や「花の都のまんなかレ」など訛るところがご愛嬌である。

次は歌いながら踊りだしたが、スローピッチで「ヤアトナアソレ」と舌がもつれる。しかし彼女たちは一生懸命だからその誠意には動かされぬ訳には参らぬ。やがて何やら勇壮な歌と手振りが始まった。それは昔カンボジアとシャムとの間に起こった戦争の歌を合唱したのであったは、その様子と云い語調と云い誠に勇ましいものであった。次に有名なスウパン劇が演出される。その筋書の大要は、

(一場)アユウチヤ時代ビルマ軍がアユウチヤを攻撃したる際、途中スウパン市を攻略し土人を捕虜となして、むごたらしくこき使う。その中に「ドワンチヤン」と称する美人あり。「マントラー」を称するビルマの士官は残虐にも水を飲まんとする者に水を与えず、婦人の首飾りを奪ったりする。ビルマ軍大将の子「マンライ」という士官、同じく捕虜の監督となし居たりしが、マントラーの残虐を見るに忍びず遂に物言いとなり決闘を始めマントラーは額に傷つき敗北する。

(二場)夜マンライは美人ドワンチヤンを訪れ心の中を打ち明けた。ドワンチヤンはスウパンの捕虜を全部解放すれば妻となると約す。マンライは承知して解放する。そして二人で話しているところをマントラーが樹陰に来て隙見しこれを大将に訴えんと考える。

(三場)ビルマ軍の陣営、マントラーはビルマの大将に向かって、ビルマ軍の士官が捕虜を解放してしまいましたが如何様に取りはからいましょうかと言う。大将の言うには死刑に処せよと、後これが自分の倅なるを知りたれど武士に二言なしとて処刑を言い渡し親子の情に忍びず悲しむ。そこへ美人ドワンチヤン来場マンライの罪を赦されんことを願うが、容れられず。

(四場)処刑場、斬首された所へドワンチヤン来場悲嘆にくれ、この上はマンライが極楽に行かんことを願う幻覚にマンライが天国に罷り天人となったのを見て欣喜して家路に走る。

(五場)彼女は家に帰ってみると、父母も親戚もビルマ軍のために殺されているのを見、非常に怒り、もはや夫も父母も亡き以上自分はこの世に思い残すところなしとて、武器はないが全滅しても最後まで戦うと決心して村の者を集め、ビルマ軍一人殺しても結構だ。勇躍して次の軍歌を歌いながら軍勢を集める。

「来たれ、来たれ、同じ血の通うスウパン人よ、攻撃せよ、少しも恐れるな、スウパン人は少しも憶せぬ。こぞって強く、一人も遁れるな。如何なる敵にも嘗て恐れぬ。誰彼の別なく力と斧を持って集まれ。
自分らは悪事をせず、安楽に暮らしていたのにビルマ軍が攻めてきたのだ。シャム全国民皆忿怒す。ビルマ軍は捕虜を打ち殺し、残虐の振る舞いばかり。安居してはならぬ。シャムはシャム人のシャムである。起って攻撃し失われたるものを取り返せ。吾等は討死を決心す。来たれ、来たれ、ビルマ軍を攻撃せよ」

行く行くビルマ軍の前哨を皆殺しにし、輜重兵【しちょうへい】を殺し、敵の本陣に近づく。
遂に本陣に入らんとすれば、大将はとても勝てぬ、武器がないからビルマ軍に敵わぬから帰れという。吾等はたくさんのビルマ兵を殺した。武器がなくとも闘ってみせる。帰らねば撃つぞ、撃ってもかまわぬと場内に打入ビルマ軍の砲撃に遭い全滅す。そこへ大将の一行来たりてシャム人の勇敢なる精神は見上げたものであるが、武器がなかったから敗北したのだという。

結末が何だか物足らぬ。一寸支那劇のようでもあるが、現代のシャムにも武器の必要なことを諷したものと見られぬ事もない。それはそれとしてドワンチヤンが契りも浅き夫を失い父母を奪われ、悲嘆の極決然としてスウパン人に呼びかける時の態度声調こそ勇壮そのもので、開幕に際し高らかに唱った「ラーチ、マヌー」に似通い、真に血躍り肉鳴るとでも言いたいような活発なものであった。その主役女優スワンナの顔がまざまざと眼前に髣髴する。挙国皆兵女性男装の断髪をパラリとさせて首をかしげながら初めは緩やかに「マンライー、チャーターイ、マネーガン、チヤネン、ヤレバンナーイ、ナンバン、アイアイー……」と哀調を含んで泣きつ訴えつ手を組み足を投げて舞台一面を狂い回りやがて急調となり「カリナ、カリナ、マトバンナイー、バトバン、タウチヤ、ヤレナウナイー、カリナ、カリナ、マトバンナイー」と手を挙げ足を踏んで勇壮な軍歌となる時こそこの劇のクライマックスでシヤンダーク【ジャンヌダルクのこと】もかくやと思われ、全く日本人向きの活劇である。

次はラバム、タワツンという天人の舞、天人の男女古式の舞踏、その次ラマヤナー物語の舞楽「ハヌマン」白猿と夜叉「ウイルンチャンバン」の戦、夜叉が海水中の泡の中に身を隠したのを、白猿が長い尾で捜し当て捕らえて打ち取る場面、最後はラオ、ペンと称するこちらシャム月夜における男女の舞(男は肩章女は裲襠帯)に打止めとなる。その何れもが幽玄極まりなき古典的のところに生命がある。要するに腕と指との旋律で、素晴らしく反り返る点において日本舞踊も顔負け、断じて脚線美ではない。

舞楽のリズムは極めて悠揚たるもので、調子に合わせながら「レレレレノレー」など、腰と肩とを微かに振り動かす。殺陣もレビュー化されて特殊の持味を示す。

劇終わって後、主役二女優に花輪贈呈の式を行う事に予定されている。前もって容易の花紐を首にかけよとの註文で団長たる我輩にその晴れの役が回ってきた。合図に従って舞台に登ったが一向先方から出て来ぬため一時立ち往生はテレ臭いこと夥しい。やがて先ほどスーパン劇でドワンチヤンになったスワンナが揚幕から現われて来たと見る間もなく、イキナリ跪いて合掌されたのには面食らった。不得已俯いて花紐を首に懸ける。次に現われたのは随一の美貌女優でこれは立膝をしながら合掌しているのでやや勝手がよかった。誠に団長の役得として旅行中特筆すべき出来事であった。

いよいよ最後となって二人の主役女優が捧げる日暹大国旗を中心に、十数人の少女が日暹小国旗を手にしての総踊り、何れもサラサの袴を穿ちて挙動すこぶる軽快である。右終わって姿勢を正し粛然と唄いだしたのが「君が代」である・総員起立舞台上の女優たちと唱和すること二回、三千里外燦たる日章旗の下、日暹人合唱の国歌こそ感激に充ちたもので、覚えず熱涙が双頬を伝う。

田村中佐、一行の一路平安を祈り、主催者代表佐藤記者より謝辞を述べ、シャム王国万歳を三唱して解散したのは既に12時を過ぎ、午前0時30分帰船同1時半就寝した。

10月16日、午前中名所見物の予定、午前9時行動開始、自動車分乗も大分板についてきた。リヤカー人力車が切りに目につく。聞けば普通の人力は支那人に限り、この運転式軽便人力は暹羅人に限るとの話、台北にも最近移入されてきた。

最初案内されたのはデユシツトの新宮殿で会ったが、旧王宮前広場から4キロの道路はベルリンのそれを模したと伝えられる。幅員65メートル、両側の人道と車道との間にはマホガニー、もろに得の並木が四列に茂り、その間は芝生に覆われ、数間ごとにベンチが設けられている。この付近皇族貴族の邸宅多く、士官学校、兵営などもある。

新宮殿前にはラマ五世チユラロンコール陛下の銅像が立てられ、左隣にはアンボーン宮が見える。右側に公園があって広々した池の汀【みぎわ】もなごやかである。やがて通用門らしいところから入場を許されたが、新宮殿としては未完成らしく、大理石造りの議事堂のみが華麗と荘厳とを誇っている。最初白象と白猿とを拝観に及んで後議事堂に向かったが、案内の美服氏が知事さんと聞いて驚いた。この議事堂はイタリー技師の設計に基づき大理石もイタリーから取寄せ、なお内部の壁画もイタリー人の手になったと言う。擬石は少しもない正身の石造りであるだけ台湾石材株式会社社長兼務の我輩人様よりは一層注意深く視察した。議場はあまり広くはないが天井の高いのと装飾の立派なのと今一つ議席ごとに一個宛の拡声機が備付けてあるには感心した。玉座の設けもあって天蓋のようなものが立てかけてある。何でも総工費4、500万円には上っているらしい。昭和7年6月26日の革命に際しては皇帝皇族いずれもこの議事堂に一時避難されたとの事である。

次はグランドパレイスの宮殿拝観、百四、五十年来の王城で、場内には大蔵、外務、内務の各省、造幣局などがあり、また内蔵寮、宮内省、内大臣府に当るものもある。正面の三層楼がチヤクリー宮で最近改修されたばかり、右側十字形の寺院式建築がズシツトマハバサー宮殿である。その内部に特に進入を許されたが、例の天蓋や壁画の精密なのに驚く、車寄せの代わりに象寄せとでも称すべき象の乗り場が設けられているのも流石に暹羅だけの事はある。

宮殿内の建物はこのほか二三に止まらず、いずれも由緒付き因縁付きの説明を聞きながら輪奐【りんかん:社寺などが壮麗であること】壮麗のワツト、ブラケオの大伽藍に入り、金色燦然たる極彩色の釈迦一代記を仰ぎながら中央に鎮座ましますエメラルドの仏像を拝す。高さ二尺五寸世界の至宝と称せられ、古来この仏像を廻りて幾度か争奪戦が行われたとも称せられその眉間には一寸大のダイヤモンドが光っている。毎年皇帝がこの仏像を纏う法衣を捧げられるとの事、皇室公式式典場にも用いられる。続いて仏牙殿経堂、皇霊殿など尽くるところを知らず。カンボジア文化の仏跡アンコールワットの大模型もある。三木さんから長廊下の壁画の説明を聞くだけでも小半日は要する。仏教信者たるもの一度は参拝あらせられて然るべきであろう。王宮広場を前にする博物館は入場料1バーツ(邦貨金1円60銭)を徴す。主催者側の奮発で拝観に及んだが、石像、木像、御経、葬具などの陳列で、中に素晴らしく大きな象車(?)だけが印象に残る。この博物館のお隣が昨夜の劇場であった。

今一箇所王宮の菩提寺ワット・ポーに二十四間半の大涅槃像(寝釈迦)を見物し一行は帰船、有志の面々はアングロ・サイアムの製材所を視察したが、我々一部は商船会社招待により某ホテルで午餐頂戴の上ニューロードを経て本船に帰る、この道路は既に何回も往復したので外国商館や邦人会社などの所在地なぞおおよそ見当がついてくる。市街の建築は主として煉瓦造り二階建て、ほとんど皇室の所有であるからよく整頓されている。市民の約半数は支那人であるため市内だけ歩いていては一向にシャムらしくない。それでも所々にアタツプ(ニッパ椰子)葺き【ふき】の屋根が風情を添えている。昨日の市中見物でやや失望した一行も本日の両宮殿ならびに仏閣詣で初めて満足したような顔付きをしている。

午後3時から本船サルーンでティーパーティーを開く。森総領事ほか70名の来賓あり、日暹協会長にして鉄道院副総裁たるビヤセリ氏と佐藤記者との間に叙礼辞の交換あり4時半散会したが、シャム人20余名華僑10余名の出席もあり大いに有意義であった。英語も福建語も話せぬお客様も何となく物言いたげに親しみの眼差しでうち寛いでおられたのは嬉しかった。

それから午後8時まで自由行動とあって、仏像、木象、人形などそれぞれ買物なぞに出かけたものも多かったが、我々幹部は三菱新田支店長の好意により海天楼と称する一流支那料理店で餐応に預かった。昨日の三井社宅の料理と言い今日の料理と言い、支那料理としては上乗のもので、中には初めてお目にかかったものもある。そっと同行の張君に尋ねてみると「台湾にもありますよ」とのこと、台湾料理でも御宝を惜しまず特別念入りに註文さえしたら相当のご馳走もあるらしい。
この日は午後8時から日本人倶楽部で茶話会を開いてくださるとの事で定刻までに参上する。倶楽部は日本人小学校と同一建物にある。当夜の会合は誠に有意義であった。まず日本人会長として鈴木宇治氏、日本人商工会議所会頭として平野郡司氏、青年会長として某氏の挨拶あり、それに対し我輩は一場の謝辞を述べ、かつて用意の問題を提出し先方において適当の人を指定して回答してもらう事にした。

◇ 在留同胞の現況 鈴木日本人会長
日本人会会員143(地方11)比較的粒揃い、俸給生活者4割、自営6割、収入悪しからず。公共心も比較的発達し居れり。
◇ 在留邦人発展の経路 伊地医院主
明治39年3月27日渡来の30年在住者、在郷軍人副会長も勤む、当時邦人150(醜業婦12~3人、主婦67人)日露戦争直後に優遇された。三井も39年の開店。欧州大戦後台銀出張所開設せられしもまもなく閉鎖した。最近に至り三菱、正金の進出あり。個人商店中にもあまり古いものはない。
◇ シャム民族と仏教徒の関係 高野山藤井布教師
シャム人は如何なる階級の者も3箇月は頭を剃り素足となりて戒律を守る風習あり。その期間は黄衣を着す。皇帝といえども僧侶に対しては敬礼せらる。
◇ 母国に対する希望ならびにシャムの産業と美術工芸について 帝室美術学校教授三木榮氏
台湾暹羅間航空路の開設、並びに人物本位の農業工業両学校の建設。シャムは米産地で輸出の8割を占む。メナム河が自然の肥料となっている。支那人の利益は多いがその割に日本の品物は買ってくれぬ。
◇ シャムにおける同胞の発展策 平野三井物産支店長
人材と資本とを要求す。医師、歯科医師、写真師、時計直し、眼鏡修理、靴屋、鍛冶職など邦人技術入用ただし将来は不言実行の要あるべし。
ひ 台湾よりシャムおよび南洋への発展策 田村陸軍武官
大企業組織で心棒を打ち込むこと、技術方面にも進出の余地あり、台湾において実業学校を起せ。
◇ シャムの木材事業について 大谷洋行主
◇ 労働賃金と労力価値 鈴木会長
バンコクパクナムまでの道路普請において労働者最低賃金70セント、未成年者30セント。体格より見て概して労働には不適。支那人と比較にならぬ。
◇ 台湾の産業をシャムに移すべく有望なる方面 三井物産陳大欉氏
ひ シャムの道路 政府技師東稻造氏
◇ シャムの綿花事業 政府顧問三原博士、十万憺トン標準にて着手中
◇ 台湾の人と資本と技術とを歓迎 森総領事
英国との間に不割譲条約あり。関税軽減に心懸く、南方進出は根気を要す。

などと尽くるところを知らぬ。またシャムにおける支那人50万人、その6割は広東省潮州人、1割はその他広東人、1割は福建人で、満州語は福建語に近似しているためよく通じ、従って台湾から渡来せる者はほとんど言語の不自由を知らぬとの話も聞いた、今後シャムは本島人の活躍すべき天地として書き入れにしておくべきである。

この意義ある会合は双方の熱心により午後11時半まで続き惜しくも解散した。台湾においても内地からの観光団に対しこの種の会合を催してその認識を確実ならしむ事も妙であろうと思われた。

10月17日、午前中自由行動、我輩は団長として公使館、総領事館、三井、三菱、陸海両武官、日本人会などを歴訪し、残余の時間において夜牛子のお供で蘭と仏像を冷やかし、つかい残りのシャム銀を全部蕩尽した、これで思い置くこと更にない。邦人各位のお陰で好印象の百万都市を立ち去る。大空に輝く黄金塔がメナム河に静かにその陰を映している。詩の国、夢の里、いつまでも忘れることのできぬ執着をもった事は不思議である。

発船前30分と言うに帰船すると、仏像に限りその筋の許可証が必要であるとのこと、それを知らぬ連中が何気なく持ち帰り、本船出張の税関吏に注意せられ、特使を派して手続きにやったところだという。最早時間も迫りその隙もない。兎も角も洗濯屋婆さんに依頼して自動車で駆けつけてもらったが、なぜか要領を得ずして帰来した。あたら使賃は無駄となる、現品は搬出不能、窮余の一策として折から見送りに来てくれた三井店員に託し、幸便を待って可然送付方を依頼してようやく安心した。シャムは特に仏像に関する限りやかましいのだと言う。イヤハヤ飛んだ失敗であった。この仏像(首だけの金仏)は程経て同地から船便で届けてもらった。

午後1時15分バンコク出帆、同4時バンコク砂州無事通過、水深4.2メートル、水先人退去、この日、東北東の和風なれども白波立つ、気温82度。

バンコク出帆後まもなく台湾官界異動の無電受信、お馴染みの局長連が勇退して新規の任命があった。逢うが別れの初めとは言いながら、台北出立の際、おおよそ予期しつつ公然と挨拶も出来かねた。その方々も不在中内地に引き上げられるのかと思えば何となく淋しい心地がする。

写真は王宮内のワットブラケオ寺院。

本書は著作権フリーだが、複写転載される場合には、ご一報いただければ幸いです。今となっては「不適当」とされる表現も出てくるが、時代考証のため原著の表現を尊重していることをご理解いただきたい。

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