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ゲッベルスと私:70年間の精神活動の証左

ゲッベルスと私
2016年 オーストリア映画
原題:A German Life

フー流独断的評価:☆☆☆

2022年7月29日をもって閉館してしまった神田神保町の岩波ホールで『ゲッベルスと私』を鑑賞したのは、2018年8月1日のことだった。地味なドキュメンタリー映画にもかかわらず、岩波ホールはほぼ満席だった。妙齢の女性や中年のサラリーマン風も散見されるものの、入場者の平均年齢は70歳を超えていたのではないだろうか。若者から嫌われるから「今どきの若者は」などと言うつもりはない。しかし、これだけは言っておこう。「高齢者こそ国の宝だ」。「生産性がない」などと言うナチスのユダヤ人政策を彷彿とさせるようなデマゴギーに決して惑わされてはならない。

最近のシネコンはどこに行ってもガラガラで、ハリウッドの商業主義的な映画産業が落日を迎えているのは明らかだ。それに比べて、この熱気はどうだろう。前列に強烈な腋臭の男性が座っていた。満員の映画館で腋臭に悩まされるなんて何十年ぶりだろうと、あの時は変な感動を覚えた。そして隣の後期高齢者とおぼしき男性は、鑑賞しながら時たま感動の雄叫びを上げるのだった。嗚呼、なんと「昭和」な客席だったであろうか。

閑話休題、作品そのものに話を戻そう。そのような感傷を一気に吹き飛ばしてくれる出来だった。モノクロ画面、2時間近い全編は、撮影時には103歳だったというブルンヒルデ・ポムゼルの独白だけで構成されている。彼女は、第二次世界大戦中はナチスの宣伝相ゲッベルスの秘書だった。しかし、彼女はゲッベルスだけについて語っているのではない。故国ドイツが敗戦に至るまでの時代を、つまり彼女が34歳になるまでの前半生と重ねて語っているのだ。

映画の原題は"A German Life"。「あるひとりのドイツ人の人生」。やはり、これが正しい題名だろう。ゲッベルスの秘書だった彼女の人生は、何か特別なものだったのだろうか。答えは「否」だ。彼女の人生を徹底的に語ることが、フラクタルの一片となって、実は当時のナチス・ドイツの全体構造を表象しているのだ。

僕はドイツで暮らしたことがあるが、日本人とドイツ人には共通点よりも、決定的な相違点の方が際立っている。つまり、ドイツ人は「ガンツ(Ganz)」な国民なのだ。Ganzは日本語にすると「とても」と訳されることが多いが、ニュアンスは全然違う。英語のVeryではない。「徹底的に」くらいの語感がある。

ドイツ人は、何事も「徹底的」を好み、黒白がつかないと夜も眠れないのだ。日本人が好む「ほどほどに」とか「まあよしなに」とか「玉虫色」などは、ドイツ人からすれば理解の外であり、そのような生き様は軽蔑の対象になる。そんなドイツ人気質を知るが故に、ブルンヒルデ・ポムゼル嬢が、どのように戦後70年を生き、心の中で決着をつけてきたのか、そこが大変気になるのだ。

終戦後、彼女はソ連に5年間も抑留され、その後解放されてドイツに戻るも、生涯独身を通したという。そして100歳を越えた今、重い口を開き、思うがままを語ろうとしている。

感動したなどという言葉では語りたくない。あの顔面に刻み込まれた皺(しわ)をどう表現したらよいのだろう。日本人の医者で自分自身の百寿を売り物にして、「ステーキが元気の秘訣」とかうそぶいて、本を売りまくったり、テレビに登場していた人がいた。名前を出さなくてもわかるだろうが、なんとものっぺりとした顔をしていた印象がある。

恐ろしいものだな、人間の顔貌とは。心に刻むものがない人間は、100歳を越えてもそれを見透かされてしまうのだから。そして、神は残酷なほどの刻印をブルンヒルデ・ポムゼルの顔面に刻み込んだ。これこそ、彼女の70年におよぶ戦後の内面的精神活動を物語る証拠だろう。美しい皺だ、と僕は思った。

監督:クリスティアン・クレーネス、オーラフ・S・ミュラー、ローラント・シュロットホーファー、フロリアン・バイゲンザマー
脚本:フロリアン・バイゲンザマー
出演:ブルンヒルデ・ポムゼル


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