まじめなんだよね
小学校の頃だった。それは50年以上も前の事。愛知県豊田市で元気に通っていた頃だ。見るもの、聞くもの、すべてが新鮮でこれから何かが始まるような予感がしていた。そう言葉で表すことはなかったけど10歳の頃というのは何もかもが成長の中にいたようだった。
周りは緑で囲まれて山や川がある。伸び伸びと育つには最適なところだった。3人兄弟の末っ子として育ったこともあり、何もかもほったらかしであった。半面、なんの監視もなく、うるさくいう親はいなかった。(東京で自分が親になると子供からはずいぶんとうるさがられている)
あるおしゃべり会でこんな話題があった。あの人まじめなんだよね~。皮肉っぽくいわれたとき、これはニュアンスとしてどういう含みがあるのかという問いかけだった。集まってきたのは7人。女性は2名で残りの男性は年配が多かった。
出題したのは年長者だった。彼の育った時代にはまじめというのはポジティブに受け取られたという。まじめな頑張り屋さんは周りから信頼される。人一倍まじめに頑張ればいい大学に行ける。就職もいい会社にいける。成功を絵で描いたようなものだったという。
ところが最近シニアの中でこういうニュアンスはなくなったようだ。どちらかとうとネガティブに受け取られるという。融通が利かない。面白くない。近寄りがたい。そんな人はほっとけばいいんじゃないの。こういった否定的なニュアンスがあるという。
はたしてほんとうだろうか。そんなことを話した。いろいろな場面が想定される。概ね、まじめというのはネガティブな意味を持っているという意見で一致した。
わたしはだまって聞いていた。明らかに時代の変化はある。肯定的であったのが否定的な意味を込められるようになった。それは何が原因なのか。どんな背景があるのか。がんばることが否定される。そういったことを考えながら聴いていたのである。この文章ではまじめなんだよねという発言をどう受け止めたらいいかについて書いてみます。
平凡
まず平和ボケというのがある。東京では戦争は起きていない。鉄砲や槍を持って戦場に行くわけではない。日本のために死ぬわけではない。毎日が同じように過ぎていく。朝起きて顔を洗い、朝ごはんを食べて職場に行く。5時には帰宅をしてお風呂に入って床にはいる。それが月曜日から金曜日。アクシデントはあるけどのんびりと過ごせる。まじめでなくてもクビになるわけではない。いざ戦争ということはないのである。
東京ではまじめにしていると周りから煙たがられる。近寄りたくない存在になる。まじめ人間はほっとけばいい。近寄らないようにしよう。そういった意味合いがあるのだろう。
一方で職場ではいいときばかりではない。なにか緊急なことが起きた時にはまじめなひとは頼りになる。機械が故障したとき、天候が急変したとき。または交通事情で事態が急変したときがある。こういったいざというときに頼れるというのがまじめ人間だった。しかしそういう人は少なくなってきているのだろう。
運頼み
次にまじめというのは面白くないというのがある。ニコニコしない。無愛想なところが嫌だ。そういった印象を持っている。冗談一つもいってほしい。弱音を少しくらい吐いてほしい。そのくらいの親近感を持ちたい。だれでも失敗はあるではないか。ユーモアというのを解せないのはかえってけしからん。面白い要素を求めたい。話をしていて楽な人。いっしょにいて楽な人。努力はしないけど性格のいい人の方がいい。そういうことはいえよう。
しかしこうもいえよう。まじめなひとは一発勝負はしない。ギャンブルをしない。ギャンブルというのは運だけで勝負をする。パチンコにはじまり、競馬、麻雀、カジノ。こういった運を味方につけて勝負すること。それにより幸運をつかんでお金持ちになったりする。そういうことは一切しない。
運を味方につければいいだけであり、スキルは磨く必要はない。例えばロト7を買うことになにか特別のスキルが必要だろうか。だれでも買えるのではないか。このだれでもできるのはスキルを必要としないのであり、当たる確率は究めて低い。まじめなひとはこういうことはしない。
わたしは5月から16週間に及び、自分で選んだ7つの数字を追いかけている。当たるのだろうか。それによるとラッキーナンバーを含めて1度も当たったことがない。3つ当たったことが3回。2つが4回。6等すら当たらない。こういったことにまじめなひとは1回300円をかけるようなことはしない。
買わなければ当たらないよ。そういわれる。しかし買っても当たらないからギャンブルなのだ。ならばやめておいたほうがいいだろう。
おふざけ
最後に行動嗜癖というのがある。まじめなひとは行動のパターンが一定している。必ず9時にきて5時に帰る。仕事をきっちりする。それだけ予想がしやすい。ところがまじめでないひとは行動が予想できない。ふざけているからだ。
一方でまじめなんだよね~。この言葉には融通が利かないというニュアンスがある。少しくらいゆるくしてもいいんじゃないか。人間だもの、いいかげんなところはある。ルールで縛る必要はないだろう。そういった解釈がある。
小学校時代に話をもどすことにしよう。4年生の頃にこういうことを言われた記憶がある。ひとがまじめにしている時にはまじめに聴いてほしい。これは教室の外でまじな顔をした友達からいわれたことだ。それほどふざけたことはしていなかった。友人にとってはわたしの態度がまじめには映らなかったのだろう。
これ以来、わたしは人の話をまじめに聴くようにした。
読者の皆さんはどうだろうか。まじめなんだよね~。こういわれたことはないか。このニュアンスは何なのか。ネガティブであったとしたらどのようにイメージを変えたらいいだろうか。
考えてみてください。