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ファイナンスと経済の落とし穴

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経済学部に所属する大学生向けに書いています。金融や経済で気づいたことです。 抑制と均衡(Check and Balance)とは権力が特定部門に集中するのをさけ各部門間相互の均…
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2023年6月の記事一覧

奴隷制度への賠償

わたしが初めてアメリカにいったのは1981年の7月。今から42年前になる。場所はユタ州ソルトレークシティー。アフリカ系アメリカ人はほとんど見かけなかった。しばらくして団体でシカゴに移動した。するとアフリカ系の人たちが多くいる。そこでわたしは思った。都市に行くと黒人のひとたちが多いのかな。 4年後にミシガン州ミシガン大学に留学。それほどアフリカ系の学生は見かけなかった。わたしには寮で夕食をとるときに席をいっしょにするアフリカからの留学生がいた。その男性と食事をした。何を学んで

移民政策は緩和しない

わたしは人口問題がクローズアップされたころに大学講師になった。その年は2011年。あの東日本大震災が起きた年でもあった。震災の2か月後にはじめて東京都めじろ台駅から少し離れたところで講義をした。留学を奨励する内容で国際人としての心構えを説明するところだった。留学を前提にして国際的な仕事をする。できれば起業家精神を発揮する。きわめて困難な道筋を示したものだった。 その前提としてこれからアジア諸国を含めて多くの人たちが日本に来て仕事をするようになる。その人たちとどう仕事をしてい

人口減少に転じると何が起きるか

2010年に企業勤務を辞して大学に籍をおいた。そこで講師として登壇する機会を得た。首都圏の4つの大学と関西にある大学でマーケティングと国際経営を教える。これはこの上もない機会かと思われた。しかし教えるということは思っていたことよりはるかに困難で期待外れなことが起きるものだということがわかった。 クラスには多くの留学生が大学にいた。欧米、アジア、そしてオセアニア。あらゆる国から留学生がいた。そこには日本人の学生もいた。ただ留学生と同じ授業を受けていた。比率としては30%くらい

役員がさらにだれる可能性

20年ほど前に財閥系の商社で働いていた時のこと。わたしは思わぬチャンスをつかんだものと内心喜んでいた。だれでも知っている総合商社で都内の一等地にある。そこには子会社からの出向という形で勤務していた。それでもどういうわけか親会社である商社の背番号があるかのようだった。それは一般職員と同等に名刺もいただいていた。これもひとつのブランド力なのか。 確かにだれでも知っている商社ということもあろう。職員はピカピカの経歴のひとたちばかり。わたしもめいっぱい自分の職歴について見栄を張った

あやふやな経営学の専門分野に注意

30年前にジョージア工科大学を卒業してMBAをとった。1993年6月30日に卒業をして帰国前にカナダ旅行をした。これが最後のカナダになるな。きれいなアイスフィールドパークウェイを家族でトライブする。最初で最後。そして最高のドライブだ。そんな思いでカルガリーに向かった。そして今日それはほんとうのことになりあれ以来カナダにいくことはなかった。 わたしたち家族は1週間の旅行のあとにアトランタにもどり家具を処分して日本に帰国した。3週間の準備期間後に渋谷にある日本コカ・コーラに就職