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大日月地神示考察-10【「く」の巻】

2006年6月14日 天の日月の神 記す。

2023年3月26日更新

苦の花咲かす時くるとは、このことでもありたぞ。

前巻P55

誰にも彼にもいわゆる「カルマ」とか「業」と言われるものがあって、それを綺麗に洗濯しないと、歓喜(👉”かみ”と表現)移られないということだから、改心しましょうということだ。

確かに、世の中の宗教やあらゆる教えは、人々の心がけを正すことをずっと説いてきた。

それでも世の中から犯罪は消えないし、悪人たちは消えてない。

この神示では「因縁」という言葉で良く表現されているが、過去世の記憶はもちろん無いが、現世で生きているうちにも知らない内に「因縁」を積んでいるかもしれない。誰かを苦しめたならそれは「因縁」を生むのだろう。

その因縁を綺麗にしなくては歓喜の生活に入れないという事は、綺麗にするためにはどうすれば良いのだろうか。

自分はにはどんな因縁があるのだろう。自分はどんな悪い事をしてきたのだろう。どうやってそれを綺麗にすれば良いのだろうとと考えて修行する事が多くの宗教の一番根幹ともいえる部分ではないだろうか。

そして多くの宗教ではこんな風に信者を指導しているように思う。
「あなたは罪が深い。だからたくさん奉仕活動(または奉納)をしなければ救われない」
これは脅迫ではないか?宗教二世ともなると子どもの頃から自分は罪深いんだという罪悪感を嫌というほど植え付ける事で、その子がずっと自分の事を肯定できなくなるのではないか。

これは宗教の大罪だと僕は思っている。

罪深い(因縁深い)としてもそれは本人が自覚して乗り越えて行けばいいのであって、他人にとやかく言われる筋合いはないのだと思う。ましてや、その罪を消す方法を他人から押し付けられたとしても因縁の本質が解消されるとは到底思えない。

逆にそんな風に考え何が悪いのか、自分が何故誰かに詫びなければならないのだ。と思っていたら恐らく永遠に「因縁」は消えないと思う。

次に神示には強烈な一言が述べられている(と感じた)。

霊団(かみ)の申す言、聞くには聞くだけの御霊(みたま)となりて下されよ。信じられる⦿(みたま)となりて下されよ。分かりたか。これもみな仕組みてあることなれど、ここより他に分かる所無いのであるから、分かる所無いと申すのは、これが神の申しておることであるという事分かる人民、ここより他に縁がないという事であるのぞ。

前巻P56

狭い意味で考えれば、この神示が神の言葉であると理解しているならば、それこそが縁なのだ。そう思うからこの神示を手に取っているので当たり前だろうと思ったりするが、縁があるから引き合わされているという事は、この言葉をおろした神との縁がある。

神は、この神示に触れる魂を全て知っているという事なのかもしれない。広い意味で考えると、宇宙や地球を作った神との縁は誰でもあるのだから、この神示を通じて、この神との縁を自覚しなさいという事のようにも思える。

これ、荒れの神様お変わりなされてのお仕組みであるのざぞ。

前巻P56

荒れの神様がどんな神様なのかはっきり分からない。が、神、靈、人が共に和す仕組みに関係があるような文脈となっている。神様の秘め事のような感じがする。

神道では「荒魂」と「和魂」が表裏一体のように語られているかと思うが、それと関係しているのかもしれない。「荒=アラー=天陽の神」という言葉も聞いたことがあるが、荒れという言葉を見る限り、世の中の荒れ事を起こす神様なのだろうか、

因縁みな解消さすのじゃぞ。我、捨てよ。皆と和せよ。

前巻P57

「因縁」という事について少し考えてみると、言い方を変えるとカルマとか言われることなのかもしれないが、簡単に言えば人に恨まれるようなことをしたら、そこに因縁が生まれる。その様な事が積み重なっている状態なのかもしれない。

そして、我を捨ててみなと和して、因縁を解消させようという事なのだろうけれど、この言葉だけでも人生における課題になりうるような事だ。

今、この事が社会において結構重要な事のようにも感じる。誰かが誰かを叩き合い、批判し合い、裁き合う。一体その様な事をして何の得があるのだろうと思う。得意満面で相手をこき下ろして何になるのだろう。

みんなが共に生きる、みんながみんなのために働く。そんな風に変わることができるのは人類の意識の問題だから、別に科学の進歩とは関係ない。むしろそうならなければ、科学の進歩が相手を殺すための道具になりうるのではないか?

皆のために働くとは、生きとし生けるものすべてに、感謝いたしまつろう生き方であるのざぞ。どこまで行っても、ゆけばゆくほど分からなくなるのは、そなたがまつろう生き方できておらぬからじゃ。

前巻P57

「働くとは傍を楽にする」という言葉があるが、それを実践できる人たちはどれほどいるだろうか。ついつい、毎日の生活に追われ、売上を上げること、部下に効率を求めること、相手からいくらお金を取るかに知恵を働かせることに頭を使うばかりで、全ての人のために感謝する生き方が出来ていないなと思ってしまう。

そなた達が変えられるのではないのであるぞ。そなたたちが変われば変わるのじゃ。

前巻P57

「誰かがやってくれる」「誰かが幸せにしてくれる」「誰かが社会をよくしてくれる」ではなくて、人々一人一人の意識が変わることが必要だという事なのではないだろうか。

「世の中を変えたい」「誰かを変えたい」「誰かの考え方を変えたい。」ではなく、自分が変わる、変わる人が一人でも多く増える。それでおのずと世の中が変わるという事のような気がする。

あいつは洗脳されている。あいつは、真実に気づこうとしない。あいつはテレビしか信じない。だからその洗脳から醒まさせてやろう。俺の言うことを聞け。聞けないやつはダメな奴なんだと、ついつい、自分の考えを押し付けてしまう。

特に今のような洗脳社会においての「洗脳から解いてやろう」という考え方自体が、実は相手を洗脳しようとする行為ではないだろうか。と、最近自分自身も反省したこともあった。

これから皆、教会も無くして一つとなるのじゃから、古い教えはもう要らぬのじゃぞ。

前巻P58

あらゆる宗教の開祖が、神や仏から啓示を受けてその弟子たちによって教えが教団化している。この神示を降ろしている霊団は「世の元の元の元からの神様」というから、あらゆる宗教の元の神様という事だろうか。

ということは、その神や仏というのは、厳密にいえば、その際に啓示を下した霊団は違っているかもしれないが、その元は同じ神様ではないかと考えている。この辺りのことは、神様の世界だし、もしかすると3次元的な考え方では理解に及ぶことが出来ないかもしれない。

有りあまるほどの仕事あるぞ。早うまつろうて下され。お陰取り得であるぞ。この神示(ふで)、皆の者に伝えて下されよ。

前巻P60

これからの新しい時代を創造していく事ができる人でありたいと思う。このような神示によって気づいた事を誰かと話し合う事で、お互いの向上に繋がるような交流ができたら素直に嬉しい。

とは言え、こういう事に興味や共感してくれる友人はそんなにいないので、こんな風にネットに発信して誰かと交流出来たらと思っている。

この方、みな人民一人一人わかるのじゃから、帳面つけておるのじゃから、心で悟りて下されよ。

前巻P60 

「魂の審判」と言われるような事は、これまでも色々な宗教で言われた来たと思う。死んだ後に閻魔大王による裁きを受ける等も生きてきた時の総決算を受ける時が来るという事だと思うが、つまりその人の生き様はその人自身に還ってくるという事だと思えば分かりやすい。

この方の言葉聞こえぬのは、まだまだ因縁(めぐり)取れておらぬからであるぞ。

前巻P60

「この方の言葉」というのは必ずしも「この神示を人にみせても」という狭い意味ではないと思う。神の言葉の意味を分かるという意味であって、もしかしたら、この神示を読んでいなくても既に理解して生きている人は沢山いると思う。
それを、この神示に書いてある事が唯一絶対これが正しいという考えに陥ったとしたら、それは今までの宗教と何ら変わらないのではないだろうか。
更にこの教えこそが真実であり、他は真実ではないという考えに陥ってしまっては、それがどんなものであっても、その時点でその神示本来の意図とは全く無関係な、ありとあらゆる宗教の開祖が示した意図とは全く無関係な、自己中心的な考え方であり、それに陥ってはいけないと思う。

そうなっているという事は既に神の言葉からはかけ離れていると思う。

神の言葉とはこの神示である必要はないかもしれない。つまり世の元の元の元の神の意識・教え・祈りを理解できる事が重要であり、それが出来ないのであれば、まだ因縁が取れていないのだと教えているのではないだろうか。

神とは、本来この方の神子(みこ)としてお働き下さっておられます方々じゃぞ。人民作りた中津からの神々様とは、ちと違いますのじゃぞ。

前巻P60-P61

神社に参拝する時必ずご由緒を確認する。どんな神様なのかを知ったうえでお参りするようしている。その神様の名前を見てどんな神様なのかいつも意識する。こういった一般的にご由緒がわかる様な神様が中津からの神々様という事だと思う。

ここで言う本来の神子たる神様は、もっと根源的な存在ではないだろうか。つまり、宇宙であり地球であり自然そのもののというような根源的なものではないかと思う。そういった神を信仰の対象にしている宗教もあるだろうし、神社もあるだろうとは思う。

僕は神社にお参りする時は、そこにいらっしゃるのは人類の先祖にあたる存在であって人だと思っている。肉体はないので肉体人ではなくて霊人という事になると思う。もちろん、その霊人たる存在が自分からすれば位の高い存在かもしれない。それでも、同じ人であることには変わりないと思っているし、日本神話で多く語られる神様は、実は過去の人であると思っているので、尊い存在ではあるのだけれど、崇める対象ではないと思っている。

そこは、根源的な神の存在とは少し違うのではないかと思っているが、この違いの認識は実はとても大切ではないのではないかと、大日月地神示を読んで改めて考えた。

「く」の巻は、「苦」について示されているなぁと思った。

商売・ビジネス・あらゆる仕事を行う上において、うまく儲けたという事があれば、それは泥棒と同じことだという厳しい言葉を聞いたことがある。世の中そんなに綺麗事では済まないという事はあるかもしれないが、相手をだます、苦しめて自分が利益を得たとしたら因縁を生む。その因縁を綺麗に洗濯するための苦がある。そのツケは必ず帰ってくるという事であって絶対に逃れることが出来ない。そのツケがあるから人は改心できるのだとも思う。

僕自身、間違いを犯してようやく気付くという事があった。気づかせてもらって改心できる。改心できて初めて役に立つ人になれるという当たり前の事かもしれない。

👉犯してきた諸々の所業因縁が顕れる

👉苦しみ、改心する

👉改心して、磨かれて、光る神々の容れ物となる

そして、悪の仕組みに関わってきたみ魂らも改心させて救う。悪の神子として貴い役目をしたという事になる。

これで一度は悪改心いたすところまでゆくなれど、そこから先は、善改心いたさねばならんぞ。善改心いたさすとは、本来善は無いのであるのざぞ。

前巻P62

本来善も悪もないという事を常に肝に銘じなければならないと思う事がある。何故ならとかく正義漢ぶる癖があるからだ。あれは悪だから正さなくてはならない。と思うこと自体が偽善なのかもしれない。

この言葉は非常に深くて重いと思う。己が善と思うから悪ができる。悪があるから善がある。そもそもそれは全て神の働きであって仕組みの一つである。善も悪もすべて神の神子(みこ)だという言葉をよく噛みしめたい。

SNSなどで相も変わらず他人を貶める人たちがいる。他人を悪だと断罪する人たちがいる。自分は正義だから悪を断罪しなくてはならないと考える人が多い。

自分の意見を発信する事はとてもいい事だと思う。但しその意見は人を貶めるものではなく、建設的なものであったり、良い部分を褒め称える事であったり、厳しい事を言ったとしてもそこに愛があるんかという事だと思う。

無責任に批判する事は簡単だ。

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