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Joseph A. Schumpeter 1883-1950 (1)

シュンペーター By David R. Henderson
Cited from Econlib.org

 「資本主義は生き残れるか?私はそう思わない」。シュンペーターはその1942年の著書『資本主義、社会主義そして民主主義』(訳注 Capitalism, Socialism & Democracy, 1943)の一節をこのような前置きで始めた。この引用を根拠にシュンペーターはマルキストだと思う人がいるかもしれない。しかしその分析は、シュンペーターの結論をカールマルクスのそれとは全く異なったところに導いた。マルクスは、資本主義はその敵である、そして資本主義により搾取されているとされている、プロレタリアートにより破壊されるだろう、と信じた。そしてマルクスはその見通しが気に入っていた。シュンペーターは資本主義はその成功によって破壊されるだろうと信じた。資本主義は、自身の存在に必要な私有財産と自由というブルジョアのシステムを攻撃する大量の知識階級をうみだすだろう、と。そしてマルクスとは異なり、シュンペーターは資本主義の破壊を喜んではいなかった。彼は書いた、「もし医者はその患者がそのうち亡くなるだろうと予測したとしても」「それは彼がそのことを望んでいることを意味しない」と。
 『資本主義、社会主義そして民主主義』は資本主義の将来についての診断書以上のものではない。(しかし)それはまた、資本主義が企業家精神を生み出すということを根拠にした資本主義の輝かしい弁護でもある。シュンペーターは企業家精神の明確な概念を提示した最初に位置している。彼は、(単なる)発明と企業家の革新とを区別した。企業家が革新するというのは、発明をいかに使うかを形にするだけではない、新たな生産方法、新たな生産物、新たな生産組織を又導入することによってである。これらの革新には、多くの熟練が必要で、それらを行うことが革新のプロセスを行うことである。
 シュンペーターは論じたー企業家による革新は、古い、発明・アイデア・技術・熟練そして装備を役立たずobsoleteにするので、創造的破壊の嵐を導く。問題は「資本主義がいかに既存の構造を管理するかではなく・・・いかにそれらを創造し破壊するかにある」。彼は信じた、この創造的破壊は、たえざる進歩をもたらし、また全員の生活水準を改善すると。
 シュンペーターは「完全」競争が経済厚生を最大化する道だという広がっている見解について論じた。完全競争の下では、ある産業のすべての企業が同じ生産物を生産し、それを同一価格で売る、そして同じ技術にアクセスしている。シュンペーターはこの種の競争はあまり重要でないと考えた。彼は書いている、重要なのは、新商品、新技術、新たなタイプの組織による競争であるー利潤や産出の追加量ではなく、その(企業の)存在や生命が左右されるような競争である。
 この基礎の上でシュンペーターは、ある程度の独占は、完全競争より好ましいとした。彼は論じた、「革新のための競争は」「常に現在の脅威であり」「それが攻撃するまえに(すでに脅威で)規律するものである」と。彼は、独占を維持するために常に革新している独占の事例として、Aluminum Company of Americaを引用している。彼は注記しているー1929年までにその価格は、インフレを調整しても1890年の水準のわずか8.8%にまで低下し、他方その産出は30 metric tonsから103,400 metric tonsに増加した。
 シュンペーターは、独占により革新が生じたと信じているのか、あるいは革新の報酬として独占となる見込みにより革新が生じたと信じているのか、決して明確にはしなかった。多くの経済学者は、生産過程を秘密にすること、商標侵害から守られること、特許を得ることが出来ることなどを根拠に、後者の議論を受け入れている。
 シュンペーターは経済思想史における巨人だった。この領域の彼の大著『経済分析の歴史』は彼の三番目の妻のElizabeth Boodyにより編集され、彼の死後の1954年に出版された。同書の中でシュンペーターは、他の経済学者について幾つかの論争の種になるコメントを残した。-アダムスミスは独創的でなかった、アルフレッドマーシャルは混乱していた、レオンワルラスは常にもっとも偉大な経済学者であった、など。
 綿工場をもつ両親のもとでオーストリアに生まれたシュンペーターは、Vienna大学に経済学と法学を勉強するため入学する時点で、(すでに)ビジネスをとても良く理解していた。彼はFriedrich von WieserとEugen Boehm-Baberkのとても将来を約束された学生の一人で、28歳の時には有名な『経済発展の理論』を出版している。1911年にシュンペーターはGrantz大学で経済学の教授職を得た。彼は1919年に大蔵大臣だった。Hitlerの台頭により、彼は1925-1932年のあいだ教授だったボン大学、そしてヨーロッパから離れ合衆国に移民した。同年彼はハーバード大学の恒久職位を受け入れ、退職する1949年までハーバードにとどまった。シュンペーターは1948年にアメリカ経済学会会長を務めた。


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