七七事変から太平洋戦争までー宋子文 1937-41
盧溝橋事変は1937年7月7日であるので七七事変ともいう。この日本軍部の策動は、中国国内を抗戦つまり抗日で一致させる効果があった。ここから1941年12月7日の太平洋戦争勃発までを宋子文の動きを中心にみる。
記述は王松《宋子文全傳》團結出版社2017年pp.194-215による。
宋子文は1933年10月に行政院副院長、財政部部長といった職務を辞職している。しかし1933年4月には中央銀行懂事長,中央銀行常務理事、全国経済委員会常任委員会、中国銀行懂事長になっている。1937年7月の七七事変のとき、孔祥熙はイギリスにいた。そのため、国内の財政金融の重要措置は宋子文にゆだねられた。
七七事変後、中国の沿海地区は日本軍により占領され、国家財政の柱である関税が打撃を受け、国家収入が大幅に減少する中、軍事費が急増した。
対応重要措置は3つ。一つは年利利息4厘の救国公債5億元の発行である。「カネがあるものはカネを、力があるものは力を(有錢出錢,有力出力)」と宣伝した。しかし公債発行がこのあと拡大せざるをえなかったのは問題である。
二つは”四聯総処”と呼ばれる戦時体制の構築である。中央、中国、交通、農民の四行の連合オフィス(聯合辦事處)を作った。これが戦時金融財政政策の最高決定機構になっていった。
三つは外国為替を集中し、統制を強めたこと。とくに外国銀行との紳士協定により(資金の流出を抑えて 訳者注)為替相場の安定を図り、財政困難の緩和を図った。
このほかの問題の一つが米国から軍事、経済面での支援を受ける問題であった。1938年12月、米国に赴いている胡適,陳光甫の努力で米国との間で桐油借款が成立した。1939年2月8日に正式に協定が成立。内容は中国側が米国に桐油22万トンを米国に元利償還のため輸出することの見返りとして2500万ドルの商業借款を与えるというもの。ただし武器や飛行機、ガソリンはなどは買えないとある(内容としては軍事支援を事実上断ったもので条件も優遇とは見えない。訳者)。
結果、中国では法幣為替相場が急落。国民政府は急遽、胡適,陳光甫らに米国に7500万米ドルの提供と、法幣維持の援助を求めさせた。しかし協議はなかなか進まなかった。1940年4月20日にようやく成立した華錫借款は4万トンの錫を担保に2000万米ドル貸付というもの(これも内容として厳しいが、得た借款の使用に制限がなくなったことは中国側には前進。なお当時の米国政府の蒋介石政権への冷ややかな態度を示しているようにも見える。訳者)
ここで帰国した陳光甫は蒋介石に対して、今後抗戦は米国に全面依存するのではなく、自力更生の原則で進めるべきと訴えている。そして陳光甫に代わってワシントン入りしたのが、宋子文であった。当時、米国の関心は英国にあり、中国に続けて借款を与える意図もなかった。
(宋子文の米国入りは1940年6月。7月2日夜、宋子文が先の二つの借款の内容を批判し、新たな借款が容易に得られる期待を語ったのに、1938年9月以来、駐米大使を務める胡適が激怒したことは有名。二人の反りはあわなかった。このときの胡適による。以下の宋子文批判も有名。
"子文,你有不少長處,只沒有耐心!這是沒有那麽容易。"あなたにはいいところもあるが、せっかちすぎる。これがそんなに簡単なことではないのがわからないのですか。)
(しかしこのあと情勢は変化してゆき、米国の中国支援は本格化してゆく。これは宋子文の外交が成功したというより、国際関係の変化により米国は態度を変えざるを得なくなったのではないか。以下、成立した借款を列記しておく。1940年11月30日は日本が汪精衛政権と基本条約を結んだ日。米国における対日警戒感の高まりが、米国の重慶政府支援の姿勢明確化につながったと考えられる。訳者)
1940年10月22日 タングステン(鎢砂)借款 3000万米ドル価値の中国タングステンの純収入を担保に2500万米ドル 年息4厘 5年分割償還。宋子文が国民政府を代表。利于が中央銀行代表として署名。
1940年11月30日 米国政府は中国に1億米ドルの借款を与えると宣言。また同時に英国も1000万ポンドの借款を与えると宣言している。(なおこの米国の1億ドル借款は輸出入銀行を通じた5000万ドルと、中国の為替価値安定を支援する5000万ドルにわかれていた。かつ後者のうち2000万ドルは1937年7月の金担保借款を補うものだった。これに対してこれに対して、宋子文は後者について中国が実際に5000万ドル借り入れることができるようにすることを求めて実現させている。)
さらに1941年2月4日には 金属借款契約 米国は錫を軍用原料として6000万ドルで購入。また輸出入銀行の借款5000万ドルをあたえる。2500万ドルは現金で。借款の残りは随時支出。4厘の利息、7年償還。
4月1日 米国、英国とそれぞれ為替安定(平匯)基金協定を締結。5000万米ドルと500万英ポンドで法幣相場を安定させるというもの。
5月6日 ルーズベルトは租借法案の中国適用を宣言。米国は中国に2600万ドルの物資を提供するとした。
なお米国による直接的支援として、空軍の問題があった。中国の空軍は飛行機、人員とも少なく制空権を日本に取られていた。宋子文は、米国空軍から志願米兵を募ることを計画した。制約になったのは、外国に忠誠を誓う米国人は国籍を失うとの1907年の米国法の存在であった。そこで宋子文らは米国側と協議、最後はルーズベルトの行政命令により(1941年4月)、米国軍人による志願隊の結成を可能にした。1941年8月1日三個中隊からなる米国空軍志願隊が成立。地上勤務人員270名余り 125機という規模とされる。太平洋戦争勃発後、1942年7月には同隊は「米軍駐華空軍」と改編。さらに1943年3月には第14空隊に改編、保有機数も500機にまで成長したとされる。
なお太平洋戦争勃発後の1941年12月23日 重慶政府は宋子文を外交部部長に任命。また1942年9月に胡適は駐米大使を離任している。
新中国建国以前中国金融史
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