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利潤論争そしてコンドラチェフ

 中国の社会主義経済学を追跡するときに、ソ連の経済学との対比も考える。というのも、中国が社会主義市場経済を始めるときに、価値規律などの問題を議論していた中国のマルクス経済学は、改革開放で一定の役割を担えたように見える、そして今も中国の大学の中では健在に見えるのに、ソ連のマルクス経済学はソ連崩壊後、跡形もなく消えたようにも見えるからだ。しかしソ連でも利潤論争をはじめとして、経済学が機能しようとした時期が確かにあったし、遡るとロシア革命から社会主義に進むなかでやはり、様々な議論が存在している。ソ連の経済学は、どのように機能してきたとみるべきだろうか?ただ残念ながら情報が少ない。ここでは手がかりを考える。
 たとえば利潤論争について邦語文献には以下などがある。
 望月喜市「社会主義企業管理の当面する課題ーソ連の利潤論争によせてー」『立命館経営学』3(5)1964年12月
 リーベルマンほか「ソ連経済政策:利潤論争と工業管理」合同出版1966年
 平館利雄「ソ連の利潤論争について―経済理論の諸問題」『社会科学年報』(専修大学)1号1966年141-147
    J.フェルカー 村山清訳『ソ連の経済論争』鹿島研究所出版会1968年

 第二次大戦前については、ロシア革命のあと、1920年代前半、一度、社会主義化を休止する「新経済政策」が採用され、そのあと、強制集団化と呼ばれる社会主義化が進められた。そのプロセスの中で、経済学者はどのような議論を行ったのだろうか。
 手がかりとして着目したのは、長期景気循環で有名なコンドラチェフ(Nikolai Dmitriyevich Kondratiev 1892-1938)である。国際的にも有名であった彼は、1927-28年欧米に出国の機会を得ている。しかしロシアに戻る選択をし、結果的には勤労農民党事件の主犯として1932年1月に有罪とされ、1938年9月に死刑判決受け銃殺されている。考えてみるとボリシェビキではない彼が、1920年代後半まで活躍する余地があったことに、ロシア社会の奥深さも感じるのだが、彼の主張は農業集団化、土地国有化に反対し、市場を重視し市場統制に反対するもの、資本家の進歩性を認めるものだったとされる。
 全面的計画化(1926-27)。強制集団化始まる(1928年初)。農業集団化に反対したブハーリン派の失脚(1929年4月)。全面的集団化(1929年夏)。富農の絶滅政策(1930年初から)。
 コンドラチェフ同様に勤労農民党として失脚した経済学者としてはチャーヤノフ、ユロフスキーといった名前があがる。
 勤労農民党事件前にメンシェビキとして裁かれた経済学者もいる。グローマン、ルービン、エタノフスキーら。彼らは経済諸関係の自由化、資本家への補償などを主張したとのこと。
 以上の記述は以下によるが、関連する記述は残念ながら断片的で根拠となる文章の詳細な引用に乏しい。
 中村丈夫編『コンドラチェフ景気波動論』亜紀書房1987年(1978年版の復刻新装版)
 ヴィンセント・バーネット 岡田光正訳『コンドラチェフと経済発展の動学 コンドラチェフの生涯と経済思想』世界書院2002年
 岡田光正『コンドラチェフ経済動学の体系 コンドラチェフの学術遺産と現代』関西大学経済・政治研究所研究双書第131冊2003年
    小島修一「チャーヤノフとコンドラチェフとを比較する(英文)」Japanese Slavic and East Studies 25, 2005
    なお以上とは別格によく書けているのが以下の第1章そして第2章である。第1章は20世紀初頭の経済学者群像を描くのだが、記述のち密さ、登場人物の多さに目が眩んだ。第2章は本書が取り上げる5人(コンドラチェフ、チャーヤノフ、リトシェンフ、ブルックス、プロコポーヴィッチ)についての、概論だが要領よくまとめられている。
 小島修一『二十世紀初頭ロシアの経済学者群像-リヴァイアサンと格闘する知性』ミネルヴァ書房2008年

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