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Eduard Bernstein 1850-1932

ベルンシュタイン By John Simkin
Cited from spartacus-educational.com

 Eduard Bernsteinはドイツのベルリンに1850年1月6日生まれた。ユダヤ人の両親の息子であり、彼の父親は鉄道技師だった。
  Bernsteinは銀行事務員として働き、1872年に社会民主党(SPD)に入党した。1877年のドイツの総選挙でSPDは12議席を得た。これはOtto von Bismarckを心配させ、1878年に彼は反社会主義者法を導入し、SPDの会合や出版物を禁止した。
 反社会主義者法可決後、Bernsteinはスイスに移民し、そこで地下出版の社会主義者の雑誌Der Sozialdemocratの編集者になった。スイスを(さらに)追放されると、彼は英国に移動し、フリードリヒ・エンゲルスやフェビアン協会会員たちと緊密に働いたclosely worked。
 ロンドンで生活する間にBernsteinは、工業化した国で社会主義を得る最良の方法は、組合活動と議会政治を通じてであると、次第に確信するようになった。彼は、カールマルクスが資本主義発展に関して行った予測は実現しなかったと論じる連載論文を発表した。彼は、労働者の実質賃金は上がった、抑圧された階級と資本家の間で諸階級の両極分化は生じなかった、また資本が少数の手に集中されることも生じなかった、と論じた。
 Bernsteinの変更主義的見解は、彼の極端に影響力のあった著書『進化する社会主義evolutionary socialism』(1899)に示された。彼の現代資本主義分析は、マルクス主義は科学である(訳注 絶対的に正しい)という主張を弱めundermine、 Vladimir LeninやLeon Trotskyといった指導的革命家を苛立たせたupset。
 1901年Bernsteinはドイツに戻り、社会主義がいかに実現されるかについて、Bernsteinの変更主義的見解を拒否している社会民主党左翼との争いに彼は身を投じた。この左翼にはAugust Bebel, Karl Kautsky, Clara Zetkin, Karl Liecknecht, Rosa Luxemburgがおり、依然、マルクス主義革命が可能だと信じていた。
 Bernsteinは国会Rechistag(1902-06 and 1912-18)に選出され、そこで彼は社会民主党右翼を率いた。しかし彼は第一次大戦へのドイツの参戦をめぐり、左翼の立場に立った。そして1915年戦争徴集war creditsに反対投票した。
 1917年4月、社会民主党の左翼メムバーは独立社会主義者党を設立した。このメムバーには、Bernstein, Kurt Eisner, Karl Kautsky, Julius Leber, Rudolf Breitscheild, Rudolf Hilferdingを含む。
 戦後、彼は社会民主党の指導部に加わり、ドイツ革命を非難した。(また)Friedrich Ebertが創った政府において、Bernsteinは経済財省次官を務めた。
  1920年に国会に(再び)選出され、(そこで)極右の勃興に力強く反対した。そしてAdolf HitlerとNazi党に対して幾つかの強力な演説を行った。
 1928年にSidney Hookは1928年にBernsteinと会った。その彼の自伝Out of Step :An Unquiet Life in the 20th Century(1987)は、Eleanor MarxとEdward Avelingについて話すBernsteinについて、次のように思い出している。「私は、著名なマルクス変更論者であり当時引退していたBernsteinとの会合を取り決める努力を繰り返した。マルクスの死後50年の事実perspectiveの中でBernsteinの影響力はとても成長していた。何回か延期されたのち遂に会えた時、(延期の理由が)なぜかわかった。彼は進行した動脈硬化症を患っており看護婦に付き添われていた。彼は最初マルクスの思い出を語ることを渋っているように思えた。会話の初めに失望したのは、とても生き生きした記憶のある最初の学校の日のことを彼が話たがったことだ。私はマルクスの様々なエピソードや、エンゲルスがBernsteinを信頼した、マルクスの著述の遺産に常に戻るようにした。Bernsteinの態度は親切で友好的だった。二度彼は平静を失い、はっきり嵐のように(感情を)爆発させた。最初は私が、マルクスの一番若い娘Eleanor Marxが恋に落ち、彼女の自殺の原因にもなったEdward Avelingに言及したときだ。Bernsteinはイスから立ちあがり顔を紅潮させてアジるような調子で、悪い奴arch scoundrelだと非難した。しかし私はAvelingの悪事について、十分な判断very coherent accountはできなかった。」
 Eduard Bernsteinは1932年12月18日、ベルリンで亡くなった。

By Goncalo L. Fonseca
Cited from hetwebsite.net: History of Economic Thought

 ドイツ社会民主党の指導者であり、マルクス主義変更主義の主要論者。
 ベルリンの銀行事務員Eduard Bernsteinは、1872年にベーベルとリ-プクネヒトの(マルクス主義の)社会民主労働者党(SDAP)に1872年に加わった。Bernsteinは、マルクス主義のSDAPとラッサール派の全ドイツ労働者協会ADAVが、社会主義労働者党(SAP 訳注 1890年に同党の禁止が解除されたとき社会民主党SDPに改称)に統一されたゴータ会議(訳注 1875年)に参加した。ドイツで1878年に同党が禁止され、社会主義活動が禁止されると、BernsteinはスイスのZurichに避難した。Bensteinは1888年にロンドンにうつり1901年まで(ロンドンに)とどまった。この間、彼は党の新聞Der Sozialdemocratの編集者として働き、そしてFriedrich Engelsの友人、仲間になり、フェビアン社会主義者のサークルに入った。特にこの最後のものの影響が、Bernsteinの変更主義的見解を生じさせた。彼はエンゲルスとの親密な関係を、マルクス主義の指導者自身がBernsteinの見解を分かちもっているとの主張に使おうとした。
 Bernsteinは1890年にドイツにおいて社会主義者の禁止が解かれた後もロンドンにとどまった。Bernsteinは名前を変えた社会民主党(SPD 訳注 英語の党名からすればSDP)のための、またマルクス主義を指導原理とする1891年「エルフルト綱領」の主要な著者の一人である。
 長くマルクス主義者の組織の指導の光であり、エンゲルスの後継者とみなされてきたEduard Bernsteinが、マルクス主義の革命理論の反対者として登場したことは、友人たちと全社会主義運動とを驚かせた。Bernsteinはマルクスが、労働者の革命的潜在性を証明することを、労働者のますます悲惨になることや、プロレタリア革命による資本主義の究極の崩壊の予想することとを、誤って同一視したと主張した。Bernsteinの観察では、労働階級の状態は改善しており悪化していない。そして革命の願望ないし必要は弱まっている―これはマルクス自身が可能性として認識していたことであると彼は主張した。
 Eduard Bernsteinは1896-1898年の間、Die Neue Zeitのための一連の論文の中で、変更主義の見解を最初に立ち上げた。それらはのちに彼の1899年の評論treatiseに統合された。Bernsteinは、階級対立の不可避性、資本の一層の集中、資本主義の突然の崩壊、という学説を否定した。結果としてBernsteinは、マルクス主義の社会主義者は、その革命の希望を脇に置いて、議会民主主義の枠内で社会主義国家にむけて、より実際的に少しずつ運動を進めるべきだと論じた。より理論的にいえば、Bernsteinはマルクスがあまりにも早く放棄した、ヘーゲル弁証法の理想主義的側面を強調したのである。のちに新カント派の思想に刺激されて、彼は社会主義の道徳的側面をますます強調した。彼は、労働価値説、マルクス主義経済学の抽象的本質の崇拝者ではなかった。
 1896-99年のBernsteinの思索は、Rosa Luxemburg、Karl Kautsky、Vladimir Leninのような伝統的マルクス主義者によって厳しく批判された。彼らは1899年には党(SPD)を得て、公的に変更主義を批判した。しかし論争は党内でなお激しく続いた。1901年にドイツにに戻ったBernsteinは変更主義派の指導者となり、そのアピールを党内にかなり広めた。1902年に彼は国会Reichstagに選出された。一貫して平和主義のBernsteinは、党が戦争努力を支援していることで党を辞め、独立したUSPDを設立した。そしてSPD多数派の反対した。(他方で)Bernsteinは、RosaLuxemburgやSpartacust Leagueの過激な努力を支持しなかった。大戦後、BernsteinはSPDに再び加わり1919年には短期間行政にも携わった、1920年から1928年、Bernsteinは国会でSPDの代表の一人であり、勃興しつつ会ったNazi党への公然たる反対者の一人だった。彼はNazi党が権力を握る前に亡くなった。
 この時期を通じて、SPDは公的にはエルフルト綱領によりマルクス主義政党にとどまった。その理論は依然伝統的で、変更主義はただ少数意見として(存在が)許されているだけだった。有名なBad Godesburg会議において、SPDが公式にマルクス主義学説を外し、変更主義者の労働者政党であると自らを確認したのは、ようやく1959年のことであるーそれはBernsteinがかねて望んでいたことであった。

 







 


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