李鋭 自身について 2004年5月
《訪談:但望憲政大開帳》在《李銳新政見 何時憲政大開帳》天地圖書公司,2009,esp.44-48
人物週刊:あなたのお父さんは若くして留学し、孫中山に従った。お母さんはまだ清の時代の女子師範卒業生で、あなたはとても小さいときから革命に向かい、高等中学のときには思想は左傾し、国民党の封建独裁と反共、日本にこびた統治に反対した。(これは)家庭文化の薫陶を受けたのか、あるいは湖南の革命の波から生まれたものなのか?
李鋭:私のこの情況はしかし少し複雑で、家庭の原因があり、社会の原因があり、学校の原因がありました。私の父は1905年に、張之洞の官費で日本に渡りました。彼と一緒に行ったのは凌容衆ら五人の平江人です。日本につくや父と凌容衆は孫中山が日本で初めて開いた大会に参加し、すぐに辮髪を切り落とした。かつすぐに同盟会に参加した。宋教仁は日本において私の父と早稲田で同じクラスでした。
陳天華の入水自殺事件(1905年11月 清政府の要請で日本政府が留学生取締条例を作った。これに対する抗議の自殺とされる。)のあと、凌容衆と秋瑾などは放逐されて帰国。凌は帰国して平江につくや、家の不動産をすべて売却して自宅の建物を利用して啓明女校を開いた。私の母はその最初の入学生となり、一生教育を重視しました。
民国二年、私の父は衆議院議員でした。その年50万以上の県で一人が衆議院議員に選ばれ、平江人は私の父を選びました。私の二人の姉と私は皆北京で生まれました。民国6年、張勛の復辟があり国会が解散され、父は広東に行き孫中山の非常国会に参加しました。私の母は我々小さな子供を連れて(広東に)一二年住みました。のちに広東の形勢は変化し、父は広州を離れて、再び長沙に居を定めました。そこで私は小さい時から、長沙で生活しました。父は、まだ40歳になる前に1922年に亡くなった。亡くなってから(家の)経済はとても困難でした。母は我々3人の子供を連れて長沙で学びました。混乱している(亂七八糟)平江の実家には戻らないと固く決心していた。私の母は父の影響を受け、民主思想の持主で、とても教育を重視しました。とても聡明で敏捷で(很聰敏)文章と詩に長けていました。父が亡くなったとき、母は32歳、私はまだ5歳にならず、次姉は7歳、長姉は8歳でした。経済困難のため私は小学から中学まですべて自宅から通いました(走讀生)。しかし受けた家庭教育はとても厳格で、小さな子供のときから、努めて勉強をし、勤労と節約、規律のある生活習慣に努め、時に我々は叱られ、たたかれさえしました。
母は本当に偉かった(很厲害啊)。教育の重要性を十分知っていました。
人物週刊:ご両親のあなたへの啓蒙はとても重要でしたね。
李鋭:私はかつて私の母が共産党を悪く言うのを聞いたことがありません。彼女は彼女なりに理解していたのです。平江の紅白の闘争はとてもひどかった。1931年実家では「地主移民」の政策のなかで、実家の七八人の老人幼児女性赤ちゃんが亡くなった。李六如の下の夫人は、母とは同じ学校同じクラスで、六如は私の父の同郷の良き友でした。彼女は本当に早く毛沢東がどのような人間かを知ることになった。これはおよそ何か関係があります。
私は武漢大学で学生運動に参加してからは、勉強しなかった。とても危険でした。湖北公安庁は学校に名簿をあたえた。我々を捕まえるためのもので、7人の学連幹部、我々を一挙につかまえようと。校長の王星はわれわれ7人を探しだして話をしました。「君たちは注意するべきだ。時に学校は無能力になり、君たちを保護できない」
人物週刊:あなたは当時、武漢学連の頭目だった?
李鋭:武大の頭(かしら)は、武漢秘密学連の頭でもあった。学校には私の家のことをとても良く知る教授がいた。この教授は良い人で、差し迫る私の危険について手紙で私の母に伝えた。母は37年初春節が過ぎたところで、一人で長沙を離れ、学校に急いできて、近くの一般の人の家に住んで、私を監視し、いつも私の宿舎の部屋までやってきて私を見ました。
人物週刊:人身の安全で安心はできなかった、思想は、あるいはそのほかの面は?
李鋭:人身の安全。彼女は私に話した(ことがあります)。もし父がおれば、「共産」に賛成するかもしれない、あなたたち膝の頭は従順でないがすでに足は大きい(=あなたたち子供は言うことは聞かないが、すでに成長して体は大きい)。(しかし)蒋介石は殺人者なのよ。だから頭を殺すことを私はただ恐れると。その教授は手紙の中で少し大げさに書いたので、彼女はすぐに飛んできました。私は1937年5月(母に)別れを告げることなく、北京に到着し党関係者と接触しました。私は二人の姉に電報を打ち、学校に来て母の面倒をみることを頼みました。のちに知ったのですが、母は少しおかしくなっていました。私は5月10数日に出発し7月には抗戦が勃発しましたが、(その間)2ケ月足らずでした。
人物週刊:私は少し文章を見たのですが、当時あなた方は武漢で自ら党(自発党)を組織したのですね。
李鋭:武漢では党組織に探り当てられなかったので、我々は自ら党を組織しました。あの時我々の思想は進歩せざるをえなかったのです(得不得了),とても急進的な救国(救亡)思想でただ共産党だけが中国を救うことができる(というものでした)。
人物週刊:あなたたちの若い時は共産党の求めにすべてを顧みず(応じること)。救国のため、革命のためなら、学校もいらない、家庭も母親さえいらない。
李鋭:革命のためならすべてはいらない、すべては放棄だ。非常にはっきりしていました(非常堅定)。当時私には武漢大学で一緒に党を組織した女性の同窓生がいて、彼女が先に北京に来ました。彼女は党関係と上手に接触し、北京市委員会の工作に参加していました。私は武漢自発支部の9人のメムバーの入党志願書を携えて北京に到着し、北京の党上層関係と会い、われわれのこの自発党は承認されました。
人物週刊:青年時代の経験はその後の数十年の人生にどのような影響がありましたか?
李鋭:社会(的条件)から話しますと、湖南の教育は良いものでした。国民党統治時期において、歴代の為政者は教育をとても重視しました。知識分子が(もし)なければ共産党もなかった。洋務運動に始まり、わが国は西欧の教育成果を導入した(引進了)、教育の改革がなければ北京大学は存在しなかったし、五四運動も可能でなかった。われわれ人類の歴史が起こしたもので確かなモノ(真正)と認識しているモノ、学校教育はその一つです。知識と教育は立国のもとであり、進歩のもとです。それゆえわれわれは社会進歩は主として改良に頼ると認識しており、暴力に頼ることはできない。暴力革命はいつも若干の悪い結果(一些坏結果)を伴いました。われわれは破壊がすべての10年の大災難(浩劫)を経験しなかったでしょうか?私の小学校長は日本から帰国した人で、中学校長も日本から帰国した人でした。湖南は学校がとっても良かった。ほかにこのように良かったところがどこにありますか?いくつか小さな事を挙げましょう。初等小学のときですが、「良い習慣」を、生活、学習、礼儀(禮貌),助け合い、労働など数十条を上質紙(硬紙)に印刷し一人ずつに1枚わたしました。定時に会議を始め、学生の間で民主的に話して決定しました。一条ごとに討論し、みんなで挙手で表決しました。これは良い習慣の養成ですが、良い公民教育でした。現在に至っても、私の生活習慣はとても良いのです。食べながら話さない、とても倹約し質素であること(很儉樸)、とても衛生的であること、運動を好むこと。小学、中学、大学とずっと球技でチームを作りメムバーでした。今も水泳をします。
人物週刊:秦城監獄のあの8年を、あなたはどのように過ごしたのですか?
李鋭:「文革」のとき(秦城監獄に)閉じ込められたのは502人です。高級幹部が200人余り。少なくない人がその中で亡くなりました。多くの人が精神病になりました。私は延安で牢で過ごしたことがあります。私はつぎのような話を知っています。王若飛は綏遠で一間の牢に五、六年いました。出れた後、話ができず、ある人が懐中時計を贈ったところ、それを「鍋蓋」と呼んだというのです。秦城監獄に入って1年経ったとき、窓の外に起重機が部屋を作っているのが見えました。(それで入牢が)長期になることを知ったのです。まずは体を鍛えようと、気功の練習をし、部屋の中で走りました。同時に詩を作りました。(出獄後)1980年に詩集《龍膽紫集》を出版しました。500首あまりの旧体詩詞です。
人物週刊:詩はどこに書いたのですか?
李鋭:紙も筆もありません。最初はただ《語録》(毛沢東語録? 訳注)が1冊あるだけです。のちには新聞を読みました。詩はすべて脳の中です。最後の両3年は魯迅全集とマルクスエンゲルス全集などを読むことができ、少し良くなりました。要求すると、私を審問する人は10数冊の本を持ってきてくれました。このような日々は良かったです。あるとき走って転倒し、看護師は紫薬水(クリスタルバイオレットのこと 消毒に使うが有毒性も指摘されている 訳者)一瓶と綿棒(棉花簽)をくれたので、それを筆と墨に用いて両3年の詩すべてを『レーニン文選』と『剰余価値学説史』の1冊との余白に書いた。のちに発見されて2冊は没収されてしまった。出獄時に返す時に、何と言ったか。「中にとても良いものがありますね!」(実は)私は捜査を恐れていたので一首五言200余りの句の《語録歌》(毛沢東語録をもじった歌であろうか 訳注)を一番前に書いておいたのです。この長歌は《龍膽紫集》には収められていません。(笑)
人物週刊:自分の思考力を落とさないためだったのでしょうか?
李鋭:当然そうなのですが、一首よい詩ができると、時に数日気持ちよく過ごせました。
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