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John Stuart Mill 1806-1873 (1)

J.S.ミル By David R. Henderson
Cited from Ecoblib.org.

 経済学者James Millの長男のJohn Stuart Millは、ベンサムのようなBenthamite父親の厳格な期待に従って教育された。彼は三歳でギリシア語を、八歳でラテン語を教えられた。若い成人になったときにJohn Stuart Millは、感情的に鬱ではあったが、おそろしいほどの知識人だった。しかし精神的な落ち込みから回復すると、彼はベンサム的な知識(teachings)から離れ、政治経済学についての自身の見解を形作った。彼の『政治経済学原理』(訳注 初版1848年)は、書かれてから40年間、経済学の指導的な教科書になったが、同書の中でミルは、David RicardoやAdam Smithのアイデアを彫琢した。彼は、規模の経済、機会費用、貿易における比較優位といったアイデアの発展を助けた。
 ミルは自由、とりわけ発言と思想の自由の強力な信奉者だった。彼は二つの理由で自由を弁護した。第一に彼は、社会の効用society's utilityは、各人がその選択において自由であるときに、最大化すると論じた。第二にミルは、自由は人が完全な人a whole personとして各人が発展するために必要である、と信じた。有名なessay『自由について』(訳注 初版1859年)において、ミルは、「人類が、個人的にも集団的にも、いかなる数の自由な行為を用いて、保証される唯一の目的は、自身を守ることである」という原理を明らかにした。彼は「我々は、仲間(fellow creatures)から妨害されない(without impediment)、害したりharmしない限りは。たとえ、われわれの行為を馬鹿げている、不当である、あるいは間違っていると彼らが考えるとしても。」と論じた。
 驚くべきことは、ミルがlaissez-faire(経済上の非干渉主義)の一貫した鼓吹者ではなかったことである。彼の伝記作者のAlan Ryanは、ミルは契約や財産権を自由の一部とは考えてなかったと推測している。ミルは、相続税、貿易の保護主義、従業員の労働時間規制に好意的だった。興味深いのは、ミルは義務教育に好意的だったが、学校教育の義務化は推奨しなかったことである。彼は、バウチャー券による学校制度、そして学習で最小限の水準に人々が到達したことを確認する試験制度を、推奨した。
 ミルは差別のない(universal)投票権を推奨したが、より多く教育された投票者に多くの投票権を与えることを示唆した。彼は中流階級が支配的になることを意図しているとの非難に、情熱的にその提案を弁護した。彼は、それは、階級的立法を防ぐことになる、また、貧しい人を含め、教育を受けた人は誰でもより多くの投票権を持つことになる、と論じた。
 ミルはその勤労生活のほとんどを東インド会社で過ごした。彼は同社に16歳で加わり、38年間、そこで働いた。彼は政治にはほとんど影響を与えなかったが、その(職業)経験は、自律(self government)についての彼の見解に影響している。


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