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朱鎔基の学生時代(2)1944-51

鄭義『朱鎔基台上台下』香港文化芸術出版社2009年、pp.31-56 から抜粋して翻訳,要約など(写真は東京復活大聖堂)。 

 1944年10月、初等中学を卒業した朱鎔基は、国立八中永綏(ヨンスイ)高中分校を受験して入学、湘西永綏で21ケ月の時を過ごし、1946年7月に離れた。長沙から一緒に行った学生は十数人とされる。永綏は現在の花垣県。湘西土家族苗族自治州西北角、高い山が連なり、地勢は険しい、朱鎔基はなぜ辺鄙な湘西で学ぼうとしたのか。これには当時の戦争の形勢が密接に相関している。
 資料によれば、1937年12月、日本軍は迫ってきた。安徽省蕪湖、江蘇南京があいついで陥落した。安徽省教育庁は玩西山地に臨時中学を設立,戦区学生の教学を堅持した。
 1938年12月、蚌埠(ベンブー)を失った後、合肥,徐州も相次いで陥落。皖西の7つの学校の数千の学生教師は、西に移動を迫られた。長い距離を徒歩で歩いて湘西に到達。何度も名前を変えた後に(几易其名后)国立八中を創立、11の分部を設けたが、それは湘西から川東各地に広く分布した。初期には蘇皖一帯の流浪青年を主として受け入れたが、中後期には、主として後方からの学生、湖南各地の学生は大部分を占めた。
 朱鎔基はまさにこの背景のもと、当時日本軍が容易に入れなかった湘西にきたのである。
   同じクラスの楊開巻の記憶では、朱鎔基の科目の成績はすべて98点以上、なかでも「英漢辞典」の一部の内容はすべて朗々と暗誦できた。楊開巻は数理化の成績は朱鎔基に及ばなかったので、いつも教わっていた。楊は国文の成績はすこぶるよく、あるとき全校作文競争で第二位となった。朱鎔基はとても喜んで提案した。「この賞金で、おごってもらおうじゃないか」。何人かの同窓生は喜んで一緒に食べた。
 湘西で学んでいたとき、白い府綢の上着(衫)は、朱鎔基のもっとも良い服だったが、盗まれる危険もあった。(楊開巻が記憶する夏の暑い日の昼に起きた、その服が盗まれそうになった事件・・・省略)
 国立八中の時、朱鎔基が初めて行った舞台出演(登臺演出)は多くの老同窓生がよく覚えている。戴振嶽の記憶では、学校近くに清龍村は黄楊木杆が盛んに作られていた。同窓生たちは競って、二胡を作り、夕食後、校内には声が響いた。「一馬離了西涼界」「勤千歳殺字休出口」京劇ばやり(風靡)であった。(以下仲間と京劇の歌を楽しんだ話のところ・・・省略)
 (朱鎔基は湘西のとき当時流行の霍亂(フオルアン=コレラ)にかかった。多くのものがなくなったが、苗族の老医師が処方した苗族の薬で奇跡的に回復した。)
 1946年7月抗日戦争の勝利とともに、朱鎔基は公費生となり、七星街に戻ったばかりの長沙の省立一中に転学した。ここで1年転入生として過ごしてのちに、清華大学を受験入学した。
 当時一中は毎年,文科班と理科班の2つのクラスを作り、朱鎔基が学んだのは理科班でクラス同窓は28人であった。
 同窓の王海洲の目には、朱鎔基は当時、自ら話すことはなかった。彼らは同じ宿舎に住み、「二三十人がみな鉄製ベッドでした。」。王海洲は当時、朱とほとんど付き合いはなかったといい、「もし彼が(将来)大人物になることを知っていたら、もっと当時のことを記憶していたのに。」
 同窓の沈雨がたまたま記憶するところでは、「当時英語の郭昆先生は、朱鎔基のことが好きで教室でいつも彼と英語で話していた。」
 (以下 中学生のときの成績の記録。国民政府時代のものがよく残されていると思うが省略)
 (八中で同窓だった楊開巻。楊が手紙を1982年に手紙を送ってから10年、さらに5年と時間が経ってから、人にカネを貸したり、職を与えたり、そして字を与えないことを誡としていることを明かしつつ、返信を返した話がつづられている。友人知人に便宜を与えることで、政治的な腐敗に繋がることを避けつつ、しかし友人とのつながりも守ろうとする朱鎔基の人柄がよく示されている。)
 朱鎔基は1947年に清華大学電機系電機製造専業に入学した。朱鎔基はここで80点以上の成績で奨学金を獲得している。1948年4月、北平(北京)の学生は「半飢餓、反迫害」の運動を始めるが、朱鎔基はその中にいた。1948年冬に朱鎔基は、「新民主主義青年連盟」に加入。1949年10月に共産党に入党している。
 1950年後半。抗美(反米)援朝が始まると、朱鎔基は従軍を志願するが、党組織の判断でこれは認められなかった。1951年1月には党組織の推薦を受けて、学生会主席に立候補、当選している。政治家、朱鎔基の活動はここにはじまったのかもしれない。1951年、朱鎔基は学生会主席の身分のまま、数百名の清華卒業生とともに東北に赴いた。ここで東北人民政府工業部生産計画室副主任に配属され、東北に重工業基地を建設する重責の一端を担うことになる(これは未経験の仕事で困難が予想される。そこでの経験や失敗が若い時の朱鎔基を育てたのかもしれない。重要であるが、東北人民政府以降については別稿で述べることにする。)

#朱鎔基 #東京復活大聖堂

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