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王丹 許良英先生の訃報を受けて 2013/01/30

王丹「無法盡述的哀思」『自由時報』2013年1月30日
王丹「書き尽くせない悲しみ」。以下はこの王丹の記述の全訳である。

(2013年)1月28日午後1時過ぎ私は敬愛する人の訃報(噩耗)を知った。中国民主運動の代表的人物であり、元中国科学院自然科学史研究所研究員であり、私に学問を教えてくれた(啓蒙)恩師である許良英先生は病のため、午後1時に北京で亡くなられた。九十三歳であった。先生が亡くなったことを知ったとき、茫然としてしまった(愣下)。これはすでに起きたことなのか、そもそも起きたことなのか。恐らく心に準備はあった、あるいは準備の行程にあったので、驚天動地の悲しみではなかった。
 夜、自宅に戻り、ニューヨークの胡平と海外での追悼活動を相談したことをふくめ、処理すべきことを続けた。いろいろな雑事を終え、最後に座って一休みした。座るとすぐに涙が出た。
 強がりは嘘だった。
 初めて許先生の家に伺ったのは、まだ乳臭さも取れない大学1年生の1988年のことだった。それから年の差を忘れての交際(忘年交)はすでに二十五年になる。この二十五年の歳月の間、獄中の数年を除いて、私は中断なく許先生と連絡をとってきた。もっとも苦しかった1993年から1995年の間は、毎週彼の家を訪問した。あの黒雲が垂れこめた年月、あの困難と危険が合わさった情況で、二人の間は祖父と孫のようでもあった。私が出国したあとは、私の両親がこうした感情を持ち続け、一二ケ月に一度やはり許先生宅にうかがった。
 覚えているのは1995年、止むことのない(方興末艾的)新たな反対運動に対して鎮圧が進められ、私が二度目の入獄をしたときだ。多くの人が沈黙を強いられ、許先生も警告を受けた。しかしすべての人が沈黙するなか(萬馬齊暗)、彼はなお海外メデイアに「王丹のために弁護する」との公開の書簡を発表、そのなかで私の逮捕について涙が止まらない(老淚縱橫)と語った。
 今度は私が許先生のために涙を流す番だ。
 すでにある友人が私に、許先生記念の文章を求めているが、私は書くことができるだろうか。この深い感情の時に、記念文を書くのは容易ではない。思うに私には時間が必要だ。現在の悲しみは即時的な反応である。長い時間にわたる記憶がある。私が平静に先生との離別をするには、(長い時間が)必要だ。
 許先生の一生は中国民主化事業に力を尽くし推進するものだった。1980年代末と90年代中期、二度にわたる科学者の連名書簡で、政治改革を寛容を求め、中国知識界が民主化運動に参与する先鋒となった。ここ十数年は、継続して圧力を恐れず大胆に発言されたほか、許先生は民主理論の研究に専心され大量の著述(撰述)を作成された。
 2008年4月、許良英先生は「サハロフ賞」を獲得された。4ケ月後、米国大統領の小ブッシュは、バンコクでの演説で許先生の言葉を引用した。「我々が開放と正義の実現を求めるのは、我々の観念を押し付けようとか、また中国人民にその意見を表明させようとするものではない。中国の科学者許良英が述べたように、自由、平等を熱愛することは人間の正当な感情(人性)だからだ。」
 そうだ、我々は許良英先生の話を永遠に記憶しよう。ー自由、平等を永遠に熱愛し(向往)、尊び(珍惜)、追求し、防衛(保衛)する。なぜならこれは我々の人間性を堅持することだからである(這是固守我們的人性)。私は人々が許良英先生が中国の民主、自由になされた貢献を忘れないことを希望し、また彼の理想がいつの日か実現することを期待する。   


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