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ホートレー『公定歩合の百年 2版』1962

 原著はGeorge Hawtrey, A Century of Bank Rate, First Ed.1938, Second Ed.1962著者ホートレーGeorge Hawtrey(1879-1975)。手元の翻訳は英国金融史研究会訳で東洋経済新報社から1977年出版である(写真は増上寺三解脱門。1622年建築とされ重要文化財。)。1960年代から70年代当時、英国では古典の復刻が盛んに行われていた。その中で再版を得た1冊だが、ホートレー自身による新版(2版)序文が興味深いこともあり、2版の年次を採用する。以下では新版序文と1章から3章までの記述(ロンドン宛手形の問題から1866年恐慌まで)から興味深い点を拾うことにする。
 新版序文は興味深い。著者がいうには1832年にイギリス議会委員会に対してイングランド銀行理事会は、高利禁止法の廃止を求める勧告を行ったときから、1932年6月30日に公定歩合(イングランド銀行の利率Bank Rate 厳密には手形割引利率)を2%に引き下げたときまでの、まさに100年を本書は扱っている。その後(1932年6月30日から)、1951年11月8日に2.5%に引き上げるまで(戦争勃発の一次的な引き上げを除いて)公定歩合は2%にとどまっていたというのである。つまり、ケインズの一般理論が書かれた当時、公定歩合は2%の下限にあり、公定歩合で通貨管理をできなくなっていたことが知られる。
 そして1949年のポンドのドル相場が4.03ドルから2.80ドルに大幅に引き下げられたことが知られる。その結果、ポンドは過少評価され、イギリスは輸出需要に直面したとする。ホートレーは1946年アメリカで物価統制が廃止され、物価騰貴がおきて、ドルの財貨価値が低下したとする。つまり固定相場制のもとで、アメリカの物価騰貴は、他の諸国にも物価騰貴を引き起こしたとする。つまり、動揺しているドルに結びつけられたことで、ポンドもまた動揺せざるを得ず、第二次大戦後の公定歩合操作は期待された効果に至らなかったとするのである。
 次に本文第1章であるが、為替手形の役割、ロンドン宛手形の役割のところがまず興味をそそる。18世紀から19世紀、遠隔地との取引を成り立たせたのは、商工業者が買い手に振り出す、この手形の振り出しにより資金繰りがついたからであった。それを地方銀行が引き受け、割引き、取り立てを行い支えたということ。こうした業務をするうえで、地方銀行は振り出し先の銀行をコルレス先とする必要があった。やがてこのような手形は、振り出し先をロンドンとするものが支配的になった。
 地方銀行は、引き受けた手形に支払われたお金をロンドンのコルレス先に残して運用した。ロンドンには手形の仲買を専門とする業者も存在し買い取りを行った。他方、地方銀行は余剰資金をこうした仲買人に貸し付けた。こうしてロンドンの手形割引市場が、発達したとする。つまり、支店銀行制度が発達する以前に、為替手形を軸にした全国的な信用制度が自生したのである(2章の説明では、内国手形の重要性は1880年以降減退し、1900年には著しく重要性を減じ、内国手形の多くは市場で売買されることがなくなったとする)。
 次に1832年の議会委員会での高利制限法廃止勧告の意味であるが、1810年の地金委員会におけるソーントンの証言の中に、すでに指摘があるのだが、借り手の意図した取引からの利潤の見込みを相殺するだけの利子率でなければ、抑制の役割を果たしえないというのである(この意味は貨幣の過剰発行を防止するためとホートレーはあとで述べている。また金利上昇による外国為替ポジションの回復理由は第2章で説明して、外国資金が高い短期金利を獲得しようと、ロンドンに引き寄せられること。イギリスの産業活動が減退して、輸入が減少すること。ロンドンの高金利が国際的に影響してデフレが海外で広がることによって。の3点を挙げている。またロンドンの金利の変動がイギリス国内でも資金を移動させたことは2章で説明されている。)。このイングランド銀行の勧告の結果、高利禁止法は1833年に、3ケ月以内に満期になる為替手形の割引率には適用されないことになった。
 また関連して、1829年4月から5ポンド未満の紙幣の発行が禁止され、金貨が日常の通貨として使用せざるを得なくなった。その結果、イングランド銀行は、イングランド銀行はそれまで以上に、その金属準備の大きさを重視せざるを得なくなった(2章の説明では、鉄道網と支店銀行制度が発達することによって、不況期に金が地方で必要される必要はなくなったとする。それを可能にしたのは、株式銀行業のの成長だとしている。その時期をホートレーは1870年頃としている。)。
 そして1844年法の意味であるが、1400万ポンドの証券を引き当て,追加発行は同額の金属準備分に対してのみ行うことができるとするもの。それで発行された銀行券は銀行部に引き渡される。ホートレーはこれを「イングランド銀行がもはや最後のよりどころとして貸手であることを引き受けないことを意味した」と評している。
 しかし実際に起きたことは逆で、1847年の恐慌でイングランド銀行は(銀行)準備の急減に直面した。そこで政府は、割引きと貸付の拡張をイングランド銀行に勧告し、保証準備発行を制限する法律に違反しても免責することを約束し、ただし条件として8%を下らぬ利子率を課すべきとした。この金利は直前の5.5%からかなり高いが、拒否はないということから、(預金からの)通貨の流出はやみ、(銀行)準備は増加に転じたとする。(ホートレーは地金準備それから単なる準備という言い方で、発行部および銀行部の準備を書き分けている。恐慌のたびに問題にされているのは、銀行部の準備の急減である。)。
 1857年の恐慌ではすでにイングランド銀行が10%にまで公定歩合を上げたあとに、政府は書簡をだし、1847年の先例にならい、イングランド銀行が保証準備発行を制限する法律をおかすことを必要とするならば、免責を約束するとした。それでこの時は実際に超過発行が生じたとのこと。
 この政府書簡によるイングランド銀行免責は1866年の恐慌でも繰り返される。この恐慌については第3章で述べられている。パニックが起きた中でイングランド銀行は9%に公定歩合を引き上げ、政府に陳述書を提出。政府はこれに対して公定歩合が10%を下回らないという条件で、保証準備発行限度を超えることを認可する書簡を前2回の時同様に出している。この書簡直後に10%に公定歩合が引き上げられそれが3ケ月続いた。ただこのときは、先例と異なり、書簡に恐慌を和らげる効果はなく、準備の減少が続いた。国内への資金流出が続いた一方、国際的に通貨への不信が生じたことをホートレーはこの恐慌が長引いた理由としている。

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