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胡耀邦 病と負傷に耐え長征 1934-35

   1934年10月、胡耀邦は中央紅軍とともに瑞金から撤退する。それから1年後1935年に延安に入るまでを追う。
  胡耀邦伝 人民出版社2005年 40-62
  陳利明 胡耀邦(修訂版)上巻 人民日報出版社2015年 50-65

 胡耀邦は中央縦隊の中の中央工作団の一員であった。中央縦隊には高齢の幹部、三十数名の女性を抱え、弾薬などの製造器具、印刷機、文書などを抱えての移動で毎日十数キロの移動が限界だった。ほかの年少幹部とともに背中に一枚の毛布衣服を背負い、5キロの米など糧食の入った袋を身に着けた。移動は夜、日中は休憩。疲労と緊張のなか、胡耀邦はマラリア(瘧疾)にかかり高熱で歩けなくなった。体力の損耗が激しく、栄養も不十分だった。胡耀邦は一時担架の中にいるしかなかった。ただ胡耀邦は幸いこのときは、回復している。11月の末から12月、湘江を渡るとき紅軍は大きな犠牲をだした。
 その後の方針について、博古らは湘西に進んで紅二軍、紅六軍と合流を計画したが、毛沢東は国民党勢力の弱い、貴州に進み、遵義を新たな根拠地とすることを主張し、この主張が多数を占めた(1934年12月18日貴州の黎平會議)。
    1935年1月15日から17日まで遵義で中央政治局拡大会議が開かれ(いわゆる遵義會議)、ここで張聞天、毛沢東、王稼祥らが、王明の教条主義、博古と顧問李徳の軍事路線の誤りを批判、二人の軍事指揮権の取消し。毛沢東を中央政治局常任委員に加え、周恩来、毛沢東、王稼祥の3人からなる軍事指導小組が軍隊の指揮に責任を持つことなどを決めた。
 他方で実際に遵義に入ってみると、人も少なく経済も未発達であり、党の活動実績がない貴州遵義を根拠地の中心とすることの困難も感じられた。他方、国民党軍は遵義を包囲。胡耀邦の負傷はこのときである。
 2月27日、遵義城外で命令を待っていた胡耀邦は、飛来した国民党軍の飛行機が低空飛行して投下した炸裂弾の破片によって、右臀部を負傷し担架で城内の救護所に運ばれた(陳利明は手術を受けるも弾片が臀部に残った。その後、傷口は癒えず高熱はあったが、胡耀邦は痛みを隠して仲間と行軍を続けたとする)。このとき紅軍は久しぶりに国民党軍に勝っている。蒋介石はこれに対し再び包囲を命令。3月10日、紅軍は遵義から撤退し、さらに西に進み四川にむかった。
 胡耀邦は最初は担架で担がれたが間もなく、自身の足での行軍にこだわった。中央紅軍主力は10月19日、峡北の根拠地吳起鎮に達し、長征は終了した。瑞金から367日 11省2万5000里に及ぶものであった。胡耀邦はこの間、収容隊隊長として死者の埋葬などに従事している。
 峡北についてのち胡耀邦は、少年共産党(少共)中央局秘書長、宣伝部長に任ぜられた。

#胡耀邦 #長征   #遵義会議


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