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胡耀邦 中央党校の再建  1977-78

 陳利明 從紅小鬼到總書記 胡耀邦 人民日報出版社 2015年
   胡耀邦 北京聯合出版公司 2015年(写真は教育の森公園 2020年6月17日撮影)
 
 胡耀邦は1977年3月3日。中共中央政治局は胡耀邦を中央党校副校長に任命した。この時点で中央党校の校長は中央主席の華国鋒が兼務、副校長は組織部長の汪東興が兼務。つまり副校長であるが、胡耀邦が党校を運営するということであった。また後述するように党校は文革の間、康生が直接抑えていた拠点であった。
 他方、この時はなお、康生の名誉は守られており、鄧小平は復権していない。情勢は微妙であった。しかし次第に鄧小平が復権してゆく。3月10日から22日、中央工作会議。なお鄧小平の扱いは決着していない。
 胡耀邦の実際の赴任は3月25日。胡耀邦はこのあと、党校を最大限いかして、鄧小平の体制に向かう議論をけん引している。若いときから党内で情報宣伝部門活動の経験があること、理論的な文書の読解に長年携わってきたこと、など経験と資質が党校という場を得て結実したように見える。
     そもそも中央党校は同校長(1955-1961)だった楊獻珍(1896-1992)が文化大革命で、批判の対象となったことで多くの幹部、教員がそれに連座させられた。楊はマルクス主義哲学の大家として知られる。楊に対する批判は、一つは「合二而一」という議論を立てたことへの批判。この哲学論争は難解なので、批判の意味のみ書くと、この議論は毛沢東の立てた大躍進や階級闘争の議論に対立するものとして批判された。他方でまた「死んでも改めない」と批判されたことが示すのは、楊自身も自身の主張の正しさを主張し、引かなかったという意味であろう。楊に対する今一つの批判は、六十一人叛徒集団事件連座というもの。これは、劉少奇を貶める目的で、第二次大戦前、まだ国民党政権下の中国で、党本部の指示で、反省を表明して出獄した人々を一括して、反党集団だと摘発したものだが、そこに楊もいたのである。いずれにせよ、経済学の世界での孫冶方への弾圧とともに、楊の事件は哲学界での言論弾圧として有名で、楊獻珍は孫冶方と同様に文革中、長く収監されている。
 中央党校では楊獻珍の少しあとに校長(1963-1966)を務めた林楓(1906-1977)が、文化大革命で(文革の勢いを抑えようとして)打倒された彭真(1902-1997)に近いという理由で打倒されたことでも、再び関係する幹部、教員などが連座させられた。こうして二人の校長が打倒されたあと、中央党校は校長が任命されず、多くの教員は五七幹部学校に送られ労働に従事、校舎の多くも軍隊が占領し、機能を失った。胡耀邦が赴任した時、おそらくは五七幹部学校に送られていた教員は戻っているが、他方で文革中、康生や四人組についた教職員も残っている状態(文革中、四人組についた人々の問題はどの資料をみても明確でない。)。
 胡耀邦が中央党校で行ったことは、実はかなり複雑である。単純には、中央党校を再開したことだが、中央党校のスタッフを使い、全国的な論戦に積極的に関与したことが一つ。その中には、康生や四人組への批判など、多くの人々の琴線に触れるポイントがあったこと。もう一つは中央党校で「理論動態」という内部刊行物を発行。直接、党幹部に向けて、様々な啓発的文章を届けたということ。胡耀邦は、こうした活動を経て、党幹部の間で大きな信頼を得るようになったと考えられる。

自由な言論の醸成・党校再開準備
 胡耀邦は四人組批判運動を学内で開始するにあたって、攻め立てたり、攻撃したり、レッテル貼りをしない(不抓辮子,不打棍子,不戴帽子)三不主義を宣言し、幹部の審査材料を作らない(不裝袋子)とした。これは批判集会に慣れていた人々を戸惑わせると同時に、その思想を解放する効果があったのではないだろうか。
 党校内では党の路線闘争でなぜ、誤りが生じたかについての検討がまずすすめられた。党校を再開するためにも、そこを固める必要があった。つまり党校では、党の方針や、政治思想などを教授するのだが、この間の路線の混乱がなぜ生じたか、今までの路線の何が誤りであったか、など明確にすべきことはたくさんあった。もちろん、そこに胡耀邦の思考が影響を与えた。
   林彪や四人組を批判するものの、なお文化大革命や無産階級継続革命論を肯定する内容が討論メモとして、出てきたとき、現実から出発していない、自分の頭で考えていないものは使えないと叱咤している(12月2日)。党の十一大(十一回党大会)で示された党の方針が基礎になるというのが、胡耀邦の考えであった。
 胡耀邦は教学の内容を直接吟味し、内外の専門家を招いて十数冊からなる「マルクスレーニン著作、毛沢東著作選読」という教材を編集させた。大変興味深いのは胡耀邦がこれまで感じていた疑問を提起し、教員一同で訳文を改めたとされること。またこの教材の編集にあたり、ドイツ語版、ロシア語を調査し、多くの不適切な訳語を訂正したということも興味深い。批判的な古典解釈が、このとき始まったようにもみえる。

中央党校の再開・組織部長兼任
 形式的には、副校長として最大の任務は党校の再開だったはず。1977年9月に正式に再開。第一期800名である。内訳は中央省軍の幹部150名、地方附属機関の幹部350名、宣伝理論工作幹部300名。
   なお胡耀邦は、党校副校長のまま1977年12月10日に組織部長を拝命している(これに先立って9月9日、中央組織部内に組織部長の交代を求める壁新聞が張り出され大きな反響を与えていた。中央の幹部が何度も組織部問題の解決を議論する中、鄧小平から胡耀邦を推薦する声があがったとされる。)。しかし副校長職は続き党校への指導は当然続いた。路線の誤りがなぜ生じたかについて、党校再開により全国から集まった800余名の生徒(高中級幹部)そして二三百名の教職員が10日間をかけて議論したとされる。この問題を、教材を与えたうえで自由に議論させようとしたことは大変興味深い。

党校を軸に理論戦線をけん引
 胡耀邦が取り組んだことの一つは、党校の人々を指導して、つぎのような記事を相次いで「人民日報」に寄せたことである。中央党校が、理論面である意味で党内の理論形成で先導的役割をしたことになる。
 「四人組によりひっくり返されてしまった幹部政策は正されねばならない(把四人幫顛倒了的幹部的路綫是非糾正過來)」「毛主席の幹部政策は厳格に必ず厳格に落ち着かせねばならない(毛主席的幹部政策必須認真落實)」(前者は4人組粉砕の1年後でされる1977年10月7日、後者は11月27日。おそらく執筆調整に相当の時間をかけたと思われる。)。
 こうした中でタブーの一つである康生批判の動きが学内で始まる。1977年12月、教務所のある廊下に胡耀邦の黙認のもと、康生批判の壁新聞が張り出された。こうして12月中旬。康生、そしてその奥さんの曹軼歐の犯罪批判する集会が開かれている。これは胡耀邦が、康生そして曹軼歐の犯罪を見過ごしては、四人組への批判を徹底することにならないと考えていたを示唆するといえよう。康生批判がタブー視されているなかで中央党校が先陣を切った形。(なお1978年末に中央党校と中央組織部の共同作業で明らかにされたところでは、康生が文革中に貶めその被害にあった人は603名、多くは党の老幹部と社会的に有名な知名人であった)
  さらに1978年4月に党校では、『關于研究第九次,第十次,第十一次路綫鬥爭的若干問題』が完成し生徒800名、教職員200余りに配布されている。
 康生批判、そして路線問題。これらの重要問題で、共産党幹部の教育機関である中央党校は、胡耀邦の指導のもと、党内の議論をけん引する役割を果たしたといえる。

『理論動態』の創刊
 胡耀邦が取り組んだことは党校を理論拠点として活用することにあったとおもわれる。おそらく、最初に行ったことは、教職員の中の振り分けであった、信頼できる人をより分けることだったと思われる。そして党中央、理論工作を行う省幹部向けの内部刊行物『理論動態』の刊行を党校で始めている(1977年7月15日)。
 (鄧小平は、華国鋒が打ち出した「二つがすべて(两个凡是:毛主席が決めたことや指示したことは守らなければならないとする考え方)」は誤りだとする意見書を4月10日、華国鋒、葉剣英と党中央に提出した。葉剣英、李先念がこれを支持。5月3日中共中央は鄧小平の意見書の正しさを認めるに至る。ただ鄧小平は職務にすぐは復帰していない。1976年に失った職務の回復は1977年7月の党の十一届三中全会の決議による。ここで中央副主席となり政権の中枢に復帰。8月の党の十一次大会は、主席を華国鋒、副主席を葉剣英、鄧小平、李先念、汪東興とする体制を選んでいる。)
 『理論動態』の創刊は鄧小平の復権と時を合わせている。初号のタイトルは「継続革命問題の探究(探討)」。同誌は5日で1号のペースで刊行された。やがて『人民日報』や『光明日報』など全国紙が記事の転載を申し込むようになり、『理論動態』の影響力は増した。胡耀邦は、組織部から、その後、中央秘書長兼中央宣伝部長、さらに中央総書記になっても、『理論動態』の編集に強い関心を持ち続けたとされる。これは、党幹部向けの内部刊行物が持つ重要性を胡耀邦が意識していたことを示すが、先見性があるといえるのではないか。
 1977年10月25日と30日の理論動態は毛沢東の誕生日に合わせて、マルクス、エンゲルス、毛沢東本人の個人崇拝に反対する語録を集めている。要するに『理論動態』は、党幹部に積極的に胡耀邦の考え方をアピールする場になったのである。
 1978年3月には党校理論研究室の孫長江が『理論動態』に「実践是檢驗真理的唯一標準」と題した一文を提出。ほぼ同時期に、南京大学の政治系教師胡福明が、まったく同名の論文を完成させており、こちらは『光明日報』編集部に提出され、結果として『哲学』第77期(1978年4月11日)に発表された。
 『光明日報』の総編集楊西光は胡福明の文章があまりに長文であるとして、胡耀邦の協力を得て、胡福明の文章に孫長江が手を入れるかたちで、この文章を書き直させた。それが最終的に、『理論動態』第60期(1978年5月10日)に発表された「実践是檢驗真理的唯一標準」である。これはその後、『光明日報』に転載された。これは『理論動態』に掲載されたなかでも、もっとも政治的インパクトの大きな論文になったとされる。

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