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華商産業証券市場 1927-1936

尹振濤《歷史演進,制度變遷與效率考量》商務印書館2011年,pp.189-190

p.189 活発な公債市場の形成は華商(中国人を背景とする 中国人が保有する)株券市場の萎靡不振と鮮明に対照される。1927-1936年、華商産業証券市場は十分冷え切っており(顯得十分冷清),株券取引は外国人商人(外商)の衆業公所に主要集中していた。発行市場からみて、この時期、近代産業証券はそれでも一定発展した。1929年2月から1933年末までの統計によれば、上海で正式に登記した(注冊登記)した494社の株式会社(股份公司)の実際に払い込まれた資本(實繳實本)は2億200万元に過ぎなかったが, 1936年までに全国鉱工業の資本総額は13億7600万元に達した。20世紀30年代(1930年代)以前、社債は風毛鄰角(鳳毛麟角と同じ、大変希少という意味‐訳者補充)だったが、1930年代に入ると、社債(公司債券)の発行は次第に増加した。たとえば、1934年だけで、閘北水電,六河溝煤礦,啓新洋灰,永利化學など7社の著名企業により1750万元の社債が発行された。そして取引市場から見て、「信交風潮」の影響により、株券の信用は完全に失われ(掃地)同時に政府は財政圧力を弱めようと、民衆が公債売買にさらに多くの資金を投入するように、公債引き受けの優遇条件を不断に高めた。政府公債は1921年のあとは、一貫して近代中国証券取引市場の主人公であり、(そこに)産業証券は入りにくかった。加えて効益の著しい企業の株券であるとか、債券は多くは、少数の大企業家、官僚そして富商に掌握され、あるいは引き受け発行の金融機構の手中にあり、本当にわずかな少数が上場された。証券市場において、華商株券を気にする人はほとんどなかった(少有問津者)。上海華商証券取引の「98%は公債であり、株券取引は極めて少ない」「株券はわずかで、買い手があればすぐに落札された(僅僅是應應卯)。」まさに陳光甫が言うように「少数の外商の株券のほか。すでに1万以上の株券が発行されたが、ただ少数が
p.190  資金流通の助けになれただけで、その他の大多数は有価証券の資格を失っており、平時は等しく取引がなく、ひとたび恐慌となれば、骨董書画と同様に値段がついての流通はできなかった」。この一時期産業証券は発行市場があるだけで取引市場はなく、社債は全体として発行規模が小さいがゆえにますます存在の影がなかった(總體規模小而表現尤甚)。

新中国建国以前中国金融史

#華商証券市場 #信交風潮   #聖徳記念絵画館

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