Rosa Luxemburg 1871-1919
ローザ・ルクセンブルグ By Goncalo L. Fonseca
Cited from History of Economic Thought, hetwebsite.net
Rosaの生年であるがこの資料は1870年としているが、1871年とする資料がほとんどなので1871年としておく。
ポーランド生まれの赤いローザは、1919年のドイツにおけるスパルタクス(Spartacist)革命(訳注 ドイツ革命とも呼ばれる)の指導者のひとりとしておそらく最もよく知られている。その革命は、ドイツ軍にとらわれている間の彼女の虐殺によって終わった。彼女はポーランド社会民主党の創設者であり、ドイツ社会民主党の左翼を率いた。
左翼の戦術についての、エンゲルスへの初期の挑戦や1919年のドイツ革命における彼女の役割は、おそらく最もよく知られている。しかしマルクス主義の理論家としての役割が、ここで我々が彼女に関心を寄せるところである。ルクセンブルグは、Eduard Bernsteinの変更主義理論の崇拝者では全くなく、カウツキーとともにBernsteinの批判に対しマルクスの主たる弁護者だったーそこで彼女はBernsteinが見逃していると感じた帝国主義と金融資本の諸問題を繰り返し強調している。彼女の『社会改革か革命か Social Reform or Revolution』(1899)でのBernstein攻撃は、少し厳しすぎるほど、変更主義者の議論を大変効果的に破壊した。
有名な評論treatise『資本蓄積論』(2013)で彼女は「恐慌論争」に加わった。彼女の特別な貢献は、「閉鎖的」資本主義体系においては、資本主義が生産する余剰価値すべてを吸収することはできないから、資本の永続的蓄積は不可能であることに注目した点にあった。非資本主義の生産形態に接近することで(訳注 原文はby accessing non-capitalist socialist formations: この句の意味が実はよく分からないが、ここでは非資本主義社会を市場として資本主義社会が必要とするということを書くべきではと考えた。以下のように書き換えて訳出する。 by accessing non-capitalist forms of production )、この機能停止を妨げることができる。かくして彼女は自身の帝国主義の理論を、過剰な消費財を投げ込み、かくして恐慌を防ぐ、その場所をめぐる資本主義国家間の闘争として前進させた。
結果として彼女は、第一次大戦前の不安定さの多くは、ヨーロッパの巨大な権力間の、資本主義的帝国主義者の闘争から生じたと議論した。ルクセンブルグは、ドイツ社会民主党の戦争支持に反対するため、第一次大戦中に結成されたSpartacus Leagueの主たる指導者だった。彼女は反対派によって当然のように拘束され、ようやく1918年リープクネヒトとともに彼女が、不運のドイツ革命を率いる、まさにそのときに解放された。
以下のSimkinの記述は参考になるが、1918-1919年のドイツ革命において、ローザが議会制民主主義論者の立場を堅持していたが周囲を説得できなかったとしている。ただ実際にローザが発表した文章を見ると、議会制民主主義へのこだわりをすてるように主張しているものも散見される。議会制民主主義の評価は、ローザの評価で分岐点になる所と思える。そもそもドイツ革命が実際はどうようなものだったかにも議論の余地がありそうである。Simkinは、実態として、武力による政権の掌握というには程遠いものだったことを示唆している。ローザたちは社会民主党中央の事実上の指示によって軍部により虐殺されている。今回は、Simkinの全文訳出をためらい冒頭だけ訳して、リンクだけを張っておく。
By John Simkin
Cited from spartacus-educational.com なお上述の資料では生年は1870年。しかしこちらの資料では1871年生まれとされている。
Rosa Luxemburgは、 下層中流階級のユダヤ人家族の5人の子供の中でもっとも若い年下の子供として、ロシアのポーランドエリアであるZamoseで1871年3月5日に生まれた。人生の出だしの病気で彼女は1年間ベッドに居た。骨の結核tuberculosisの良くない治療は、修復できない損傷の原因になった。
Rosaはとても知的な子供で、5歳までには読み書きができた。学校では常にクラスでtopだった。ロシア皇帝AlexanderⅢは政治改革を求める人々に抑圧政策を続けた。(また)国内少数民族のロシア化政策を推進した。これはロシア帝国内に住む、ドイツ、ポーランド、フィンランドの人々にロシア語と(ロシア語)学校を強制することを含んでいた。
ワルシャワの高校の時、ユダヤ人には厳格な数量割当が存在し、現地のポーランド語の使用は、学生たち自身の間でさえ、厳格に禁止されていた。彼女はポーランド独立の支持者になり、社会主義的な見方を発展させた。16歳の時、彼女はクラストップで学校を卒業したが、「権力への反抗的態度」を理由に、金メダル(授与を)拒否された。彼女は(当時)ユダヤ人であるとの理由で、女がレイプされ、男が虐殺されるのを見たとされている。
当時、推定で550万人のユダヤ人がロシアに住んでいた。AlexanderⅢにより導入された法律により、Pale of Jewish Settlementとして知られるようになるところに住むことを強制された。豊かな商人、学生そして一定の職業のものは例外とされた。Paleはポーランドの10の県、隣接するロシアの15の県に設けられた。それはRigaからOdessa、SiblisiaからVilnaそしてKievに。このことはロシアを離れるユダヤ人の急増につながった。90%以上は合衆国に定住した。
ロシアでは女性は大学で学ぶことが許されてなかったので、ローザはスイスに移民し、そこで哲学、法学、政治経済学を学んだ彼女がアダムスミスやカールマルクスの著作の研究を始めたのはこの時期である。ローザは地域の労働運動に活発に参加し、Pavel Axelrod, George Plekhanov, Vera Zasulich, Alexandra Kollontaiと連絡をとるようになった。(また)社会主義革命に参加した仲間であるJulian Marchlewskiの親しい友人になった。(以下略)
Rosaの自伝には以下のMarxit.orgのものがある。事実関係はこの記述の方が整理されている。これも冒頭だけ訳して全訳は控えておくが、FonsecaやSimkinより読みやすい。
1871年3月5日、Congress PlandのZamoshcでローザルクセンブルグは、ユダヤ人家族の5人の子供の最も若いものとして生まれた。1889年18歳の時に彼女の革命的情熱は、収監を逃れるために彼女をスイスのZurichに移動させた。彼女はそこで多くのロシアの社会主義者と出会った(RSDLP分裂前だった)。その中には党の指導的人物であるGregory PlekhanovそしてPavel Axelrodがいた。(しかし)ルクセンブルグが、ロシア人の党と主としてポーランド人の自決問題をめぐり、理論的な違いを口にするのにそれほど時間はかからなかった。ルクセンブルグは、自決は国際的社会主義運動を弱めると信じた、そして新たに独立した国家へのブルジョアジーの支配強化を助けると。(訳注 脈絡がおかしいところを中略する)
この時期にルクセンブルグはポーランド社会主義党の頭目であり、彼女の生涯の仲間となるLeo Jogichesと出会った。ルクセンブルグは党の演説者で理論家となり、Jogichesは党の組織者として彼女を賞賛した。二人はその残りの人生を通じて緊密な個人的・政治的関係を発展させた。
ルクセンブルグは1898年にZurichを離れベルリンに向かった。そしてドイツ社会民主党に入った。入党して間もなく彼女の最も生き生きとして革命的なアジ(扇動)と著述が始まった。当時の社会民主党の中心的論争問題について、彼女は1900年に『改革か革命か』を書いた。それはEduard Bernsteinのマルクス理論変更主義に反対するものだった。
ー彼の理論は我々に、社会民主の最終目標という社会変革をあきらめるよう忠告しようとする。階級闘争の手段である社会改革をその目的にしようと。Bernsteinは大変はっきりとこの見解を特に書いている。「何かこれという最終目標はないのだ。運動がすべてである。」と(以下略)。