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胡耀邦 1932年末AB団関与を疑われる/その後、少年共産党中央局幹部に就任

 胡耀邦の人生の中で最大の試練は1932年末、AB団への関与を疑われたことで、突然訪れる。彼はこの時まだ17歳だった。中国共産党では、反党の疑いがあるだけで殺してしまうという無茶苦茶なことが繰り返されたが、AB団(反ボリシェビキ)はそうした事案の一つだ。肅反(スーファン)と呼ばれる、反党分子の摘発運動である。ここではこの、胡耀邦人生最大の危機について、以下の資料により述べる(写真は根津神社庚申塔 2020年7月26日)。
 胡耀邦傳   人民出版社/中共黨史出版社 2005年  27-33
    胡耀邦從紅小鬼到總書記  修訂版 人民日報出版社  2015年  41-50

 肅反が生じた理由として、国民党に取り囲まれて殲滅の対象とされている(圍剿ウェイチアオ)情況のもとで、党内に疑心暗鬼が生まれやすかったことがある。路線をめぐる議論をこうした方法で封じていたようにも取れる。その手法は逼供信(ビーコンシン:あらゆる方法で自供を迫ること)、株連(チューリエン:罪を認めると、さらに関係者を自白させること)など。問題は、多くの幹部が、冤罪であるのに弁解ができなかったため、無実の反革命の罪で処刑されたことだ。湘贛(シアンガン)省でのAB団肅反の動きは比較的開始が遅かった(湘贛省党書記王首道は肅反は慎重に進めるべきで証拠を重ねるべきとの立場だったが、党中央では王明ら左傾機会主義者が主導権を握り、湘贛省党委員会は肅反問題で右傾だと批判して、肅反工作を迫った。)。
 1932年末省の政治保衛局は、ある人物の自供を根拠に胡耀邦(省児童団団長)とその友人譚啓龍(省少年先鋒隊隊長)がAB団としてリストアップされた。省の常任委員会では、胡耀邦の先生の一人がAB団としてすでに処刑されていることを根拠に胡耀邦を怪しむ意見と、胡耀邦がまだ若く、ソビエト区に入ってからの活動ぶりが素晴らしいことから慎重な取り扱いを求める意見とが対立し、省委員会書記の王首道は判断しかねた(陳利明はすでに王首道は職務を解任されていて、新書記の任弼時レン・ビースが着任する前の当時、省のソビエト政府副主席譚余保タン・ユーバオが二人を守る発言をしたことを指摘する。)。たまたまこの会議に陪席していた、中央の巡視員馮文彬(フェン・ウェンビン)はこの二人を保護したいと考えて、もともと二人は中央に属していることを根拠に、二人を中央で審査すると提案して省常委の同意を得た。
 二人を連れて瑞金に戻った馮文彬は共青団ソビエト区中央局書記の顧作霖に報告。顧作霖は少年先鋒隊中央総隊部総隊長張愛萍に審査を命じた。実は張愛萍自身が、AB団に疑われて難を逃れた経験をして間がなかった。張愛萍は二人から経歴などを詳細に聞き取り、二人はAB団ではないとの判断を下して顧作霖に報告し、顧作霖は二人の解放と仕事の配分を決定した。
 ところがこのとき湘贛省委では、中央から派遣された人物による支配が強まり、王書記が解任されたほか、数名の幹部が反革命分子として処刑され、胡耀邦の案件についても改めて処理したいとして、胡耀邦を連れ戻したいと提案してきた。顧作霖は、これには同意しなかったが(なお)確信はなかったので(也沒有底)、胡耀邦の仕事を一時停止させ、彼を小屋の一室に隔離した。このあと、顧作霖は胡耀邦と二人だけで夜遅くまで話し合った。
 顧作霖は、張愛萍とともに胡耀邦が前途のある幹部だという確信を強めた。このあと顧作霖は湘贛省委に中央から人を派遣して胡耀邦の件を再度話すが、胡耀邦を湘贛省委に送ることは危険だとして見送る判断を下した。また胡耀邦の隔離を解き、馮文彬に胡耀邦の面倒をみるように伝えた。つまり胡耀邦を守ったのである。
 このAB団への関与を疑われ、命を失いかけた経験、老幹部から受けた恩顧を胡耀邦は終生忘れなかった。それは文化大革命を収束させる過程での彼の活動ぶりからもうかがわれるところだ。実事求是という言葉には、中国共産党で繰り返されたこうした冤罪問題がある。
 1933年5月に中央ソビエト区児童局に入り、少年共産党中央局の『青年実話』の編集工作を行い、併せて児童局機関刊行物の『時刻準備着』(1933年10月5日から34年7月25日まで18期毎期4000部刊行された)を中心となって編集した。8月胡耀邦は中央ソビエト区反帝擁護ソビエト総同盟青年部部長に就任、宣伝部部長も兼任した。9月、胡耀邦は共青団員から中国共産党員になった。このとき胡耀邦はまだ18歳にも達していなかった。1934年初めには少年共産党中央局秘書長になった(この間、中央政府刊行の『紅色中華』に1933年9月に寄稿。その中では一部の地域で児童工作を充分重視していないこと、また子女の児童団への参加を拒む傾向があることなどを、問題として指摘しているとのこと)。

 しかしこうした生活は続けられなくなる。蒋介石の軍隊による包囲が強まり、1934年10月、中央赤軍幹部は中央革命根拠地の放棄を決定。いわゆる長征が開始される。

#胡耀邦    #肅反 #根津神社庚申塔

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