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朱陰貴「抗戦前後上海華商証券市場(1927-1945)」

朱陰貴《近代中囯・・金融與証券研究》上海人民出版社2012年320-340

p.320  上海華商証券市場は抗戦前後非常に特殊でまた重要な歴史時期のひと時を経験した。南京国民政府成立後、近代中国最大の証券市場である上海証券市場の取引指標(標的物)は、株券証券から繰り返し変化して政府財政に服務するための「単一債券市場」となった。1937年抗日戦争が全面爆発後、上海証券市場上の「債券市場」は徹底解体され、産業証券が天下統一する局面が出現した。華商企業の株券が証券市場の唯一の指標となった。資本市場と産業資本は近代中国であまり見られない緊密な結合を表し、多くの企業が成立し、多くの企業が増資し規模を拡大した。注意に値するには、この過程において、かなり大きな範囲又相当長い時期、市場が主導作用を発揮したことである。本文で述べるように、抗戦前後上海証券市場のこの変化は、戦争時期の多様な要因に影響されているが、ある種の意義からいえば、近代上海社会が次第に成熟し転型を出現することを一種体現している。
 この問題を提起し自己の観点を語り、学界を説得したい。

p.321  一、抗戦前の上海証券市場の「財政市場」性質
 抗戦爆発前の上海証券市場の主旋律、あるいは証券取引所の主要功能を言うなら、政府の財政服務のため(のもの)であり、この特徴は30年代抗戦爆発前に至るとますます明らかだった。その性質が当時の人により政府の「公債市場」あるいは「債券市場」と特色付けられていた。
 抗戦爆発前の中国証券市場の政府財政服務の役割(功能)であった淵源は、近代中国証券取引所誕生時の母体中に帯びていたところであり、先天的要因によるものだといえる。たとえば、1918年に最も早く北洋政府の批准を受けた北京証券取引所であるが、その誕生は近代中国産業の発達の求めにあるのではなく、北洋政府が債券を大量発行するという形勢に適応するためであった。当時の背景は、「北洋政府の財政は落ちぶれた(破落戶的)財政であり」「関税局の鼻息を別にすれば、儲けを分け合える関税,塩税の維持への支出を別にすれば」「完全に借り入れに頼って過ごすしかなかった」。統計によれば、「1912年から1926年まで北洋政府は、27種の内債を発行し、発行総額は8億7679万2228元に達した」「その中で圧倒的に多くは1914年以後発行分で」とくに1918年、1920年、1921年の発行が最も多かった。
 北洋政府が発行した国内公債は一般に銀行が引き受けた(承銷)。しかし証券市場で流通させることを求められた。北京証券取引所から北洋政府農商部に向けて出された開業申請書はこの点を明らかに証明している。この文書は北京証券取引所設立(成立)の根本理由と原因は「あらゆる公債およびすべての有価証券の売買が次第に増えているものの、その評価を定める統一機関が存在せず、価値の上下にいかなる基準(標準)もない。担保を提供するしっかりした機関もなく、売買は現金取引のみで、定期取引もできないため、証券の流通は滞らざるを得ない」。証券特に公債の流通が滞らざるを得ない問題の解決は、北京証券取引所設立の根本原因であるようだ。この故に「政府公債と国庫券発行が最も多く溢れた時期は、北京証券取引所が最も繁栄隆盛を極めた時期であった」。
 このあと1921年に発生した「信交風潮」は証券市場に対して「財政市場」に変化するうえで火に油を注ぐ作用を起こした。それは誕生間もない幼弱な
p.322  中国証券市場を挫折させ、一般大衆の株券取引と証券取引所への認識と信用を根本から動揺させた。1936年に穆藕初moodysがはじめた「交易所週刊」上になお「取引所のこの度の風潮のあと、一般の社会の人々は、賭博の場所だと長年考えてきた週刊は今も改まっていない」との結論をなおみると、マイナスの影響は長く深いことを知りうる。
 しかし「信交風潮」がもたらした結果の一つは、証券市場に債券性質の形成を直接促進したことである。「信交風潮」の時、「本所株は取引きが停止され、その他の株券も取引は甚だ少なく」、社会民衆の株券投資への信用(信心)は大打撃を受け、株券売買はほぼ断絶した。しかしこのときに華商証券取引所は、公債券の売買にたよっていたことで生き残った(獲得生機)。公債券はこれにより証券取引所の「思わざる救世主」となり、とくに「袁世凱期に発行された六厘公債、それに北洋軍閥政府が発行した各種公債は、売買対象として歓迎された。それゆえ当時戦争は絶え間なく、市場の波動はとても大きかったが、公債は一種のとても良い投機品となり、「売買は頻繁で(取引所)を何と維持したのである」。
 この後、南京国民政府成立時期に大量発行された内債は、近代中国証券市場の証券取引所の営業と発展をさらに支え、その「公債市場」と「財政市場」の色彩をさらに濃厚にしたのである。

p.328   二、抗戦期間上海証券市場産業証券「天下統一(一統天下)」
 抗戦全面爆発前の上海証券市場について経済学者をして嘆かせた主客逆転(主賓異位)現象は、抗戦全面爆発後徹底的に改められた。
    抗戦全面爆発後、国民党軍隊が上海から撤退。上海華商証券取引所は業務停止命令に従い、国民政府債券や中国人商人(華商)株券取引はすべて中止(停頓)を宣告された。このあと上海租界は「孤島」になり、上海で外国人が開業した西商衆業公所は4ケ月の業務停止の後再開(復業)し、過去証券を経営した華商ブローカー(經紀人:仲買人)も華商証券取引所ビルの廊下で小規模な証券先物取引を組織して、南京国民政府発行の公債を売買した。しかし1938年3月南京国民政府が外国為替審査確定手続(外匯審核辦法)を実施後、法幣は外国為替相場維持がむつかしくなり、ブラックマーケットが出現し、金と外国株は急速に上昇、南京国民政府発行の公債は取引対象にしがたくなった。1940年12月16日、一部の中国信託業と銀行業の人々は上海の大量の中国人商人の余裕資金(游資)を導き、西商衆業公所の西欧商人の株券投機に抵抗して、かつて「中国株券推進会」を設立、中国企業株券取引推進を提唱していたが、
p.329  同会が推薦する中国商人株券数量は継続して増加、88種にまで達した。
   1941年12月8日、太平洋戦争が勃発し、日本軍が租界を占領し、上海の経済情勢は一変し新たな段階に入った。この時、西商衆業公所は強制的に業務を停止された。直接の結果は「外国為替の凍結、外国株外国貨幣などは売買禁止」であり、大量の余裕資金が休むところを求めて(求得歸宿)中国株券に集中、「これまでまともに相手(青睞)にされなかった中国株券が、これを機に勃興した」。別の一面では1942年前半、汪精衛偽政権の財政部はいわゆる新旧法幣脱離政策を公布、偽中儲幣の法幣に対する比率は77,74,70,66,53,50へと下がった。貨幣価値が日増しに下がるので人々は資金安全策を求め、中国株券は初めて広く歓迎され、空前の盛況を呈した。

新中国建国以前中国金融史 

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