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董時進の土改上申書(1949)

 以下は董時進(トン・スウチン 1900-1984)が1949年12月に毛沢東にあてて出した上申書全文とその解題の翻訳である(「1950年、董時進上毛主席書」『文学城』2016年11月3日の翻訳)。この上申書は『炎黄春秋』2011年第四期に掲載され広く知られるようになった。その内容は、土地改革の停止を情理を尽くして求めるものであるが、歴史の歯車を止めることはできなかった。現在、董時進に関する学術論文は何本か出ているが、それらはこの上申書自体への言及を避けているように見える。なぜだろうか?土地改革は現在も中国革命のなかで意義を認められている部分。上申書の評価は、中国革命そのものの評価に直結するので慎重になるのではないか。

董時進上毛主席書   訳出元:『文学城』2016年11月3日
董時進(トン・スウチン 1900-1984) 四川省墊江縣(現在重慶市)人。1924年米コーネル大学で農業経済学博士。1925年帰国。北平大学、四川大学などで校長、農学院教授、院長など。月刊現代農民主編。重慶大新農場を創設。中国民主同盟を発起設立、中国農民党を創建。1949年12月毛沢東に土地改革中止を求めて懇切な上申書を提出。彼の中国土地経済と農村社会についての正面からの(另蹊徑的)分析と正確な(精準)結論とは今日中国政府が改めて認めるところ(認可)である。1950年に香港。1957年米国、1984年米国で亡くなる。生涯の著作は豊富。「農業経済学」「中国農業政策」「国防と農業」がその代表作。

 董時進は毛沢東に土地改革を論じた手紙を送った。経済学者董時進は1949年12月に毛沢東と其の外の中央の指導者に、一通の長い手紙を書き、彼の土地改革についての見解を述べた。その全文は以下のとおりである。
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 中国共産党の土地改革の基本理由は、中国の土地制度は封建的搾取性があり、それゆえ廃止(廃除)されるべきというにある。我々は少数の大地主が、たとえば軍閥官僚悪人(惡霸)などの封建性はもとより否定できない。しかしすべてのあるいは多数の地主富農、そしてすべての土地制度が封建的(性)だというのは言い過ぎだと言わざるを得ない。なぜかという理由をここに述べたい。
 ア(甲) なぜ全土地制度は封建的(性)だと言いえないのか。中国の土地制度は自由に売買でき貸借できる私有制度であり、この点で封建性を構成するに全く不十分である。(私有 訳者補語)財産制度のもとでは、すべての物品は自由に売買、貸借されるのであり、たとえば家屋車両船舶機械牛馬などいずれも同じであり、これらの物品は封建的(性)とは考えられていない。なぜ、土地は封建的だと考えるのか。一部の人は土地はその他の物品と違いがあり、土地は天然物で、家屋などは人造物であり、それゆえに同じものとして向き合う(看待)べきでないという。こういう言い方は全く誤っており、正されねばならない。
 農業の土地は、天然物とみるべきではなく、実は人造物である。開墾により土地を耕地に変えるできるというだけではない。というのは開墾は、天然の土地を農業生産の土地に変える上での仕事のごく一部だからである。とげの出た低い木を折り、穴を掘って池を作り、水道を開いて堤を築き、地面を平らにし、棚田を築き、たまった水を排水し、土地を肥沃にし、道路を開き、橋梁を修築するなど多くの仕事がある。これらの設備こそ土地生産を支える人類の生活を支える基本要素である。これらの設備がなければ、土地は全く生産できない、あるいはとても短くわずかにしか生産できない。いわゆる農地とは、天然の土地に上述の多数の改良耕作後のものに付けられた名称である。都市で盛んな不動産は、地面の上にレンガ、泥、木材で構成されたものの名称である。理屈は同じである。幾つか特別顕著な例を述べよう。たとえば長江各大河川両岸の堤防(堤壩),洞庭湖及び各湖周囲の堤防(圩堤),江南羅の網目のような水道、華北の密に分布する井戸(水井)、四川西南各省に特に多い棚田、海辺の防潮の堤(大壩)、南方各地にみられるため池(池塘)。これらの人造の成果はすべて土地の生産力と分離できない。また農業土地の一部分だということもできる。かつ比較的重要な一部分だと。農地の価値の主要なものは、この人工改良物の表面(上面)にある。それゆえに未だ開発されたことのない辺境地方では土地はおよそ無価値であり、すでに開発改良された農業地はとても高価なのである。察哈爾緩遠諸省(察哈爾と緩遠は中華民国の省の名前である)の荒れるに任した土地は一ムー定価一角でかつ買うものはほとんどいない。内地の熟田は1ムー少なくとも十元、数百倍の差である。この超過する価値は人による開発改良の結果である。もとよりこれらの開発改良は何世代もの人力が蓄えられたものであって、決して現在の土地所有者が自ら行っただけではない。(その価値は前の世代がかつて出した 訳者補語)相当の代価なのである。都市の不動産もまた(その価値は 訳者補語)、非居住者がなした労力によるものでありその代価にほかならない。
 過去の経済学者は、土地は天然物であると考え、土地は破壊されないものだと間違って考えていた。現在の経済学者や科学者はこの種の学説は誤りであることを知っている。農牧方法が良くない国土にあっては、容易に大量の耕地牧場が壊されるが、それは水の保持、土壌を豊かにする偉大な運動の放棄である。中国では水害干ばつなど災害が重大で農業生産が低劣であるが、その基本的かつ主要な原因は、農業方法が不良であるため土壌がやせ湖や池がふさがれているいることにある。土地は天然物で放っておけばいいという誤った観念を正さねばならない。開発改良や土壌の肥力の培養を不要とすることは、全国を砂漠にし民族を滅亡させることである。
 イ(乙) なぜ地主はすべて封建的(性)だとなぜ言えないのか。一種保守的なものは小規模に銭財を保っている。金のある軍閥官僚商人などは田畑を多く買うことを喜んでいない、買うとしても少しで彼らの銭のごく小部分である。大家族の金持ちは村(鄉下)の大地主とはいえない。これら大富豪の財産の最大部分は、都市あるいは外国にある。都市において1ムーの土地、一棟の建物を買う人は、村なら数百数千数万の土地を買える。金持ちは村で田地を買うことを煩わしいとして嫌い、ただニ三流の金持ちが、村で田地を買うのみである。村で生まれ育った小金持ちは、決して封建的ではない。彼らの中に少数の土豪悪人はいるだろうが、順良な人民が多数を占めている。彼らの多くは勤勉節約家で、己を守る存在である。その財産の多くは苦労した経営と節約の上に築かれたもので、彼らもカネを貸している(放賬)。(村内では蓄えたものの貸付は一般的にみられることで、地主富農に限られない。被雇農が得た労賃だとか農婦が卵を売った代金がたまったものとか、数は多くないが、ほかに用途がないものは貸付に用いられるしかない。これらの少額貸付は常々利率では最高だ。)彼らが事業家で主要に高利貸しをして貧民を搾取するというのは信ずることはできない。というのは貧民はその身上、油を多く絞り出せないもので、貸したいとしても借主を見つけることはむつかしいし、借りるとしてもとてもちいさな金額を借りるだけである。村で高利の借金を恐れないのは、浪費癖のある地主だけで、彼らは田地を担保に入れて借り入れる。勤勉節約の農民は誰でも高利貸しの危険を知っており、決して安易に借入しない。およそ能力と信用のある人は、想定外の損失あるいは緊急の必要があっても、常に親友を探し出して借入できる。なので高利貸しに駆け込まねばならないとはいえない。それゆえ地主富農が高利貸しで起業するとしても、彼らが搾取するのは、多くは堕落した地主に対してであり、勤倹労苦の貧雇用農に対してではない。

   私は地主と富農の実例のいくつかを、あなた方の判断のために挙げたい。これらはいずれも私が直接入手した事実である。

    50歳代の三輪車夫が私に彼の家のことを話してきた。彼はもともとは貧農で30年に及ぶ血と汗で120ムー余りの土地を継続的に買い続けた。彼の土地はすでに当地の人々に分けられてしまった。自分は10ムー与えられたが村で植え付けをしたくはなく、町に来て三輪車を踏んでいる。彼は不満を感じつぎのような傷心の話しをした。「我々が長年月風雨や酷暑の中で生きているとき、彼らは遊んでいてカネを使いつくして、それで搾取されていると言い、土地がいるというんだ。」

   我が家には老家政婦がいて、20年余り家政婦などで働いて労賃を蓄えて20多ムーを買い、もともと持っていたものと併せて30ムーあまりとした。彼女は一生労苦のあと、家で余生を送れるとおもっていた。ところが彼女の土地の大部分は赤の他人に与えられてしまった。彼女の主人(丈夫)はわずか3ムー得ただけだった。つまり主人が死ねばもはや彼女の土地は何も残らない。彼女の20年余りの労苦は無になってしまう。彼女の傷心と恨みは想像できる。

   わたしにはそれほど遠くない親戚の3兄弟がいる。20年前に分家してそれぞれが七八十ムーの田地を得た。長兄は本分を守るまじめな人。村で農業をして小さな商店を兼営、生活は質実倹約に努め積年お金をためて五六十ムーの田地を買い増した。次兄は賭博やアヘンにふけり、分家から間もなく田地をすっかり売り払ってしまった。末弟はさっさと田地を売りカネを手に町で商売をして財を成し、何か所か房産を買い、多くの現金(現款)品物(貨物)を有する。現在、長兄は田地を分けて渡す必要があり、次兄は分けた土地を入手できる。末弟はもっとも金がある。その財産はすべて町にあるので、損失を受けることがない。最も悪い次兄は得をして笑っている。もっとも勤勉で節約家の長兄が損をして泣いている。誰も長兄の扱いの非を訴えることができないでいる。

 これらはでたらめに挙げた例ではなく、これに類する例は多いのである。実際上、これらが表しているのは普通一般の情景であって、特殊例外(の情景)ではない。中国には昔から恒産あるものは恒心ありの哲学があり、歴代政府は人民が土地を買うことを鼓励した。仕事が落ち込んだときのため、一般人または土地を最も安全な財産と教え、自身を守ろうする人はみな、蓄えを土地に変えることを好んだ。田を買うことに封建的意味があるとは誰もしたことはないし、あるいは人を害するとした人もいない。田を貸すことが封建的搾取行為だとした人もいないのである。

 かつて帝政ロシアや多くの欧州国家では、土地の多くは貴族所有であり、自由に分割売買できなかった。そうした貴族大地主は一つ一つが国家と同様で、一代一代伝えられ受け継がれてきたものだった。地上の農民もまた移動したり耕すことを辞める自由はなく、必ず世世代々同一地主のもと苦役するものであり、例外は別の貴族への売却だった。このような土地制度と地主は封建性的といっていい。中国の情景は同じではない。土地は自由分割、自由売買されるものであり、耕すために借りることは自由契約行為であった。地主は世襲貴族でなく、平民階級でも貧乏人出身でもよかった。このような土地制度と地主が封建性的だというのは事実と符合しない。私はかつてとても長い間、私の頭の中の偏見を除くようにできる限り努め, 仔細に考察思索したが、結局、中国で土地制度一般地主富農が封建性的な地方を探し出すことはできなかった。

 これらの封建性の基本理論のほか、いくつかの意見と事実について、あなたに気付いて欲しいことがある。

一、新民主主義は小資産階級と連携(連絡)を規定している。中国の小資産階級は疑いなく村の中小地主富農の主要部分である。彼らのほかに小資産階級はいない。現在都市の大資産階級はなおその財産を没収されていないのに、小資産階級の地主富農はその土地財産を没収されねばならない。これは彼らを敵とすることであり、新民主主義の宗旨と完全に背反している。

二、大戦以後、開国の初めに、最も急がれるのは秩序の安定、戦災の傷の治療(醫治瘡痍)、人民の休養休息である。人心を動揺させる挙にでるべきではない。政府各方面ではその本来業務を行っている。しかるに村々では土地改革政策をあえて遂行し、調査組織工作を行い、地主富農の土地を分けてしまう準備をしている。これは地主富農にただ刀を音を出して研ぐ様子を示すだけでなく、研ぎ終わればすぐに首ををはねる(事を示すものであり)、すべての土地をもつものを不安にさせている。(区分けの線が確定するまえであり、あらゆる土地持ちは皆、その土地がわかあたえられてしまうか等しく知らず)大変不安である。彼らは、とても平穏な日々がくることを喜んで迎えられないだけでなく、今後大変な難儀が迫っていると感じている。これは決して開国時にあるべき現象ではない。

三、国家はなお財産私有と土地私有制度を廃絶(廃除)していない。中共は私有財産保護をたびたび声明している。土地は村(鄉下)の人の最も主要な財産であり、また正当な財産である。現在、政府は都市(城市)の金持ちのすべての財産と不動産そして商工業生産工具にすべて保護を与えている。村の土地は没収し、没収し分配しそのあとは昔通り私有と貸出を許すというが、このように何の罪もない(無辜)人民の財産を奪って別の人に与えることは、公平(公道)に反するだけでなく、中共の私有財産保護の声明とも符合しない。

四、新民主主義の土地政策は耕すものがその土地をすることを(本質の具体的表現、すなわち)範疇とするものであり:土地を均分(平分)する方法は、耕す者も耕さない者も区別せず一律に均分する。(これは)自ら耕している土地も分けねばならないし、耕さなくてもいいものにも分けるもので、こうしたやり方と耕す者がその田を保有する政策は符合しない。

五、地主富農が地主富農になったのは、少数の特殊な事情(情景)を別にすれば、多くは彼らの能力が比較的高く(較强)、仕事熱心で、節約した(花費較省)からである。先代の蓄積によるものも少なくないが、自身貧農から身を起こしたものもまた多い。仮に先代の蓄積があったとしても、自身健全でなければ衰退(衰敗)は免れない。すなわち地主富農の大半は社会上優秀分子であり、社会進歩を促す動力であり、国家が保護奨励すべき存在である。これは決して貧農のすべてが低劣分子だというのではない。というのは戦禍が長く続き、すべての仕事が不振だった状況下で、多くの人は皆自身の境遇を改善する機会がなかったからである。しかしどの一人の貧農も決して地主あるいは富農になろうとしてなったのではない。もしも彼らが地主あるいは富農にならなかったとしても、それは彼らの道徳が高尚で、人を搾取したくなかなかったのだとするのは、とても信じられない。国家は当然、これらの貧農を、かれらの境遇が改善するように助けるべきである。しかし彼らを助けるのは、正当な方法で(すなわち)、和平回復のあと、生産建設を発展させる努力をして、多くの就業機会を作り出し、みんなに仕事があるようにして、お金を稼ぎ蓄えられるようにすることであって、決して極めて小さな数ムーの土地を分け与えることによってではない。(また)彼らを小さな土地にとどめおいたり(羈縻)、農民がすでに嫌っている農村内で日々暮らさせることによってでもない。彼らはあのような小さな土地では、生涯苦労して、食料税とその他の支出を支払ったあとは、なお最低限の生活さえできない。

六、歴代の政府の課税(稅捐)は田地(地畝)を主要根拠にしている。今後、政府は土地所有の多少(多寡)が不等の現状のまま累進税率を進めることで、大金持ち(大富人)に重税をかけて貧民の負担を軽減することができる。(しかし)もしも土地を一律に細分化すれば、一戸あたり小さな土地の家ばかりで、国家の支出を等しく負担することになる。(これは)彼らが(国の要求を)過度で面倒だと(繁苛)と感じるだけでなく恨みさえ生じ、政府の収税も困難を増すだろう。

七、中国の耕地はすでに過度に零細に分割されていて、経営上障害になっている。(この上)さらに人々に平等に細分すれば、(また)農業への経験や興味と無関係に、経営能力の大小と関係なく、等しく一定の面積を分け与えれば、経営効率の低下、農業生産の減少は必至である。

八、一部の人は、土地改革の後、農民の生産意識(情緒)は高まるので、生産量は顕著に増加すると言っている。我々はこの話は何の留保もなく受け入れられない。一体この生産の増加は、(気象(天時)などの原因を別にして)どれだけが共産党員の激励督促によるものか、農民が土地を分け与えられたので沸き上がった感情(情緒)なのか、容易に判断がつかない。言葉を代えれば、たとえ土地改革がなくても共産党員が同様に督促すれば、あるいは同じ効果が得られるかもしれない。さらに注意されてよいのは、いわゆる意識(情緒)はわずかの時間のもの(暫時的)だということである。時が経つと低下するであろう。というのは感情(情緒)が高めた増産は、その支持が長いとは期待(希望)できないからである。別の一面では、この土地を平等に分割する(平分)という方法、その人が精励か怠惰か、能力が大きいか小さいかにかまわず同面積の土地を与えると、仕事が早く力が強い人は多く仕事はしたくないだろうし、能力の弱い人は(結局)仕事がうまくできないだろう。この情景(情形)は明らかに生産の増加ではない。
 これだけではない。和平が完全に回復された後、多くの人は彼らの土地があまりに少なく、耕すに十分でなく生活を維持するに十分でないことを嫌うようになった。そこで彼らは次々に(紛紛)外に出て商売(生意)をした。あるいは仕事を探した。彼らの田地が貸し出されないときは、外に出れない老婦女に与えられるほかなく、そうなれば農業生産は減少せざるを得ない。

九、おおよそ分地政策の前面には、さらに大きな危機がある。分地は既定政策だが、新解放区では実施は暫時見送り、まず減租が進められる。つまり土地は必ず分けられるが、準備工作がなお十分でないので、さらにしばらく待たねばならない。どれだけ待つか説明はない。しかしみんなが間もなくと考えている。それゆえ土地の所有者も耕す者も皆、考え直してしまう、現在、私の土地はすぐに他人の土地になってしまうのかと。今年私が耕した土地は来年は分け与えられて他人が耕すことになるのかと。それなら私は少し早く帰ろう、少し労力を減らそう。ため池や排水道は詰まっている、田の堤も崩れている、(しかし他人のものになるなら)なぜ掘りに行かねばならない、なぜ修理に行かねばならない。田地はやせているが、どうして肥料をやる必要がある、どうして肥料を買う必要がある。普段なら土地に残す茎根の類をすべて持ち帰って煮炊きに使ってしまった。こうして土地は変えられ壊されて、生産が減ると人々は心配している。さらに地上の樹木、桑茶、オオアブラギリ(油桐)、ナンキンハゼ(烏桕)、各種の果樹雑木などの運命はとても危うい。土地が分けられてしまったら、地上の価値あるものは移せないのではないか。四川の解放以後、私は四川の何人もの友人から手紙をもらった。異口同音に土地が本当に分けられるのであれば、樹木は早く切った方が良くはないかと。このほか私は地方の何人かの友人からも情報を得た。村の多くの人が木を切ることを考えている。すでに本当に多数の木が切られてしまった。一部の人はなお本当に土地が分けられてしまうとなお信じられない。一部の人は土地政策は変わりうると考えている。そこには希望がある。しかしその時間は長くはない。みんなが分地政策が必至であると理解したら、伐採が実行される。これらの樹木は民族の重要資産である。(成長には)多年育つ必要がある。一度大量に伐採したものを再び育てるのに一体何年何月かかることだろう。

   最後に私はあなたに一つの方法を考慮いただきたく、申し上げたい。

   新民主主義はなお一歩社会主義に進むものではないか。耕す者が田を持つ制度はさらに土地社会化農業体制に転進するものではないか。それならなぜこのように多くの分地を一挙に行なうのか。現在肉を削るように地主富農から土地が切り離され、彼らはすでにとても痛みを感じている。貧民に(土地を)分割した後、また彼らから再度(土地を)切り離せば困難はさらに多くなる。なぜ今は土地を分けることは辞めて、将来本当に社会主義を実行するときに、直接土地やその他生産工具を一斉に社会化しないのか?

   もし私の意見に賛成されるなら、直ちに分地停止を命令してほしい。合わせて土地政策を修正して、土地保有に限度を設ける方法を定めて、超過するものは期限を切って売らせる、あるいは国家が徴収という方法で、転売した耕作者から、年々の地面価格の償還を受け取る。老解放区ですでに分配した土地は、元の持ち主に返す必要はないが、土地を分けられたものは地価を支払う(補繳)べきである。(いささか安くてよいが)そうしたくない者は土地を返してもよい。このようにすると土地を分けられてしまったものはとても感激し、昔のいざこざの精算を求めることはないし、土地を得たものも恨まれる理由がなくなる。もともと誰も隣人の土地をタダで奪って自分のものにしたいとは思っていない。今、地価を支払い所有権を確定すれば、彼らの心は落ち着き(心安理得)平静そのものである(釋然于中)。 

 私は土地改革問題については、かつて少なくない時間考えたことがある。また私はかつて分地を主張する多くの文章を読んだが常にその理由は強引(牽強)であり、偏っており、根拠も十分でないと感じた。文字で民間世論を見ることはないが、一般にはすでにこのような方法は不公平(不公道)、不合理だと考えている。私は私自身はいかなる偏見もないと信じている。個人の利害から理由を探して土地改革に反対しているのではない。外部の人がかつて私を大地主だと言った。それは全く何の根拠もない話(瞎説)だ。私は抗弁しようとは思わないが、事実と違うことで名誉を傷つけられることを受け入れることはできない。私は貴方に隠さない。私は100ムー余りのやせた山の頂に広がる果樹園を経営している。全国家からみて小さな私の地面については、政府は果樹園や新式農場の土地について早い段階で分地しないと宣言している。それゆえ私は進んで弁論をし、この度は貴方の危険を冒すことも躊躇しなかった。というのも私が土地問題で了解していることは、とても重大でかつ正確だと考えているからである。もし私が私の意見をすべて十分伝えられなかったとすれば、私は、自身の良心、中国、そして無実であるのに土地を奪われた人民に詫びねばならない。私は貴方は真理を愛しており、真理に従うことが出来ると思う。貴方は、政策に誤りを発見したなら、きっと勇気をもって改められる人だ。

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    董時進は1951年に香港で出版した本の中でこの手紙の由来について以下のように述べている。

    北平にいたとき、私は中共当局に手紙を書きたいと思った。(そして)彼らの土地改革の理論と方法の誤りについて事細かく説明し、彼らに修正を求めた。私は、共産党と都市社会の一般社会分子は、意見はあるものの偏見も太深なので、徹底して話さなければ、彼らに明白にならないと考えた。そこで私は相当に長い時間を使って思考を整理して、ようやく毛沢東へのあの長い手紙を完成させた。

   この手紙は1949年12月に出された。私はこの手紙を数百部印刷し、中共の何人かの幹部、各党派の領袖、そしてこの問題に関心をもっている、あるいは研究している友人、そして教育学術機関に送った。毛氏あての手紙を正に投函したそのあとで、一日あるいは二日経ったかは記憶していないが、彼がモスクワにいるとの情報が新聞に発表された。彼が一度行けばおよそ二か月、そこに二ケ月留まって帰ってくれば、政務がたまっていることだろう。

    この手紙の後段は、土地社会化を提起して、以後、本当に社会主義化を実行するときまで、彼に人民の土地を没収しないこと、そして社会化することを勧めている。とても明白なのは、私は決して社会化を主張しているのではないことである。私の意図(意思)は、彼にまず目前のいわゆる土地改革の停止を求めることであり、今一度話し合うことにあった。

1949年董時進教授緻信毛澤東反土改
董時進:先知者的悲哀
李粛 闘地主的真相和目的 明鏡網2010年01月
土改冤死的奶奶    凱迪網路
平反土改宣言2010年10月06日
謝泳 反土改的教授董時進 2011年05月21日

福光寛「中国経済学史を学んで」政治経済研究所報告2021年6月21日

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