幣制改革(1935)と為替自由化(1946)
1935年幣制改革と1946年の為替自由化 洪葭管《中国金融史十六讲》上海人民出版社·2009年pp.19-20
p.19 1935年実施の幣制改革は法幣の対外為替相場(對外匯價)を確立した。(この1935年の幣制改革と)そして外国為替管理を緩和(放松)した1946年の外国為替市場開放とは、国民政府時期の金融史における二つの突出した重大事件で政策性がとても強く、成功か失敗かは経済金融の形勢に影響した(攸関)。
(一)高くない推定相場で1935年幣制改革は成功できた
1935年の幣制改革は絶対的に困難な複雑な情況の下、正確な解決方法を選択し高くない推定相場の原則を堅持したことで成功できた。銀(白銀)の大量国外流出、(それにより)引き起こされた通貨収縮、物価下落により、商店、銀行、銭庄は大量に倒産閉鎖(倒閉)、経済危機は厳重で、市場情勢は緊迫した。当時、貿易の均衡を主張する人あり、経済構造の機能改善が先だと主張する人あり、信用の拡充が解決の道と主張する人あり、またある人はすでに通貨収縮が起きているとは考えない、兌換を維持することを主張するがゆえに、銀の質量を減らすことを含め、銀本位をさらに一歩健全にすることが必要だとするもの、など。政府財政当局は外国の専門家が提出した意見と上海銀行家の適切な(中肯)意見を採用し、銀本位放棄を決定、銀と国外の関係を切断、管理通貨と統制的紙幣制度を実行した。新たな幣制は為替兌換(匯兌)本位制で、新貨幣の対外価値は比較高い水準にはおけず、中央銀行、中国銀行、交通銀行が発行した銀行券は完全に法償(法が弁済として認める)の貨幣となった。銀は完全に国有に帰し、つまり中央銀行が掌握し、国外で売り出したあと、補充して外国為替準備とした。新貨幣を安定させるため、中央銀行、中国銀行、交通銀行は無制限に外国為替を売買した。ここで重要なことは、外国専門家が提起する対外為替相場は比較高くはなりえなかったことである、すなわち幣制改革後の中央銀行の公示価格(牌價)は1元法幣がイギリスポンドの1シリング2ペンス半(なお20シリングで1ポンド、1シリングは12ペンスー福光)、これは5年間のイギリスポンドに対する平均相場を基礎に計算されたものだった。実際には世界市場の銀価計算では、1元法幣は1シリング10ペンス半に値し、現在1シリング2ペンス半とするなら差は8ペンス。1元法幣実質価値を6角5分まで下げていることになる(なお1元は10角で1角は10分。-福光)。主導的に貨幣価値を下げることで、改革前の通貨収縮、それに物価の尋常でない下落現象はたちまち消失、物価は上昇をはじめ、商工業の発展は刺激され、都市経済には繁栄現象が出現し、農産品価格は上昇、農民生産に積極性がみられた。このほか法幣政策の実施は抗戦初期の軍事支出需要に有利であった。
p.20 (二)関連施策なく1946年の外国為替市場開放は失敗した
1946年国民政府は外国為替市場を開放した。この外国為替市場開放案は当時。行政院院長、最高経済委員会委員長を務めていた宋子文が提起したものであり、国防最高委員会1946年2月25日開催で可決している。内容は、外国為替相場の調整、外国為替売買の自由化(開放)、中央銀行が外国為替を管理(辦理)して相互の関連を審査確定すること(この後段「相互の関連を審査確定」は意味不明-福光)、など3つの方面であった。
抗日戦争期間は、本来1935年の幣制改革時に承諾された法幣で外国為替を無限に売買できるはずであったが、1938年3月になると支出が頻繁かつ多額に(浩繁)であったので外国為替審査確定(審核)制度を実行すると宣言し、以後重慶においては外国為替固定相場法幣20元1米ドルの比率より上だとされた。第二次大戦終了後、中国は戦勝国となり、また国際貨幣基金を組織した原始会員だった。対外貿易の発展の必要に合わせる必要があっただけでなく国際貨幣基金組織協定に沿った環境と条件に合わせる必要があり、かつ宋子文がみるところ、米国資本を大規模に対中投資に引き付ける将来があった。同時に国民政府の中央銀行はこの時、3億米ドルの金準備を含め、すでに9億米ドルに近い外国為替準備を保有していた。これは外国為替市場開放の物質基礎になりうるものだった。しかし政府には通貨膨張を抑制するための関連施策はなく、財政の膨大な赤字特に軍事費の支出はまた削減できなかった。このため法幣20元1米ドルを2020元1米ドルに調整してなお元高の評価とされ、大量の商品を輸入するのに必要な外国為替は外国為替輸出所得をはるかに超えてしまった。外国資本もまた金融不安定のためとても進んで入れられない(屏未踴躍輸入)。このゆえに1946年3月4日の外国為替市場開放は同年11月外国為替管理辦法に改変(事実上外国為替開放から厳格な外国為替審査支払への転換)されるまでの8ケ月間に、中央銀行と各指定銀行売出外国為替は計38155万米ドル、1676万英ポンド、2432万香港元となり、中央銀行外国為替準備総額の40%を消耗した。以後1949年2月までに累計外国為替消耗総額は43706万米ドル、およそ9億米ドル(あった)外国為替準備の半分に達した。外国為替相場は通貨膨張の加速とともに絶えず調整を受け、1946年8月に1米ドル3350元、1947年2月に1米ドル12000元、1947年8月には1米ドル39000元となった。ここに至って外国為替市場を開放する美しい着想、それは対外貿易促進、外資吸引、貨幣安定、経済復興などを含むものだったが、通貨膨張が日増し激化する中、一方的な非難をあびてついに消失破産を宣告されることになった。
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