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李鋭「一時(いっとき)も理論を欠くことはできない思考」1996年2月

李銳《一刻也不能沒有理論思維》原載《東方》1996年第2期    罗銀胜《顾准追思录》中央编译出版社, 2017年,144-153

p.144  《顧准文集》は王元化同志が私に送ってくれた。その前は、私は顧准その人その事情その文を知らなかった。彼は私より2歳年上で我々は同世代人である。しかし九一八事変の時、私は長沙で高等中学に在学しており、彼は上海ですでに立信会計士事務所に入っていた。我々はともに民族存亡の危機に際して(在民族危亡的關頭)革命に身をささげた。日本の侵略に直面して、蒋介石の統治に不満を持ち、思考を促され、新たなものを追求した。当時新しいものは、ソ連であり、マルクス主義であり、共産党であった。それぞれの人の環境は違い,性格は違い、趣味は違い、受けた教育の程度もまた違うが、しかし私たちあの世代の知識分子は本当に多く共通したものを追求した。

困難を受けた人は思考し、思考した人は困難を受ける(受難使人思考,思考使人受難)

 一人の思想家顧准が出現するには、当然特殊な主客条件が必要だった。革p.145  命が勝利したあと、革命者となるため顧准はかえって革命の苦難を受けることになった。「三反」から「反右」に到るまで、「文化大革命」に至るまで。困窮中にさらに大きな苦痛(磨難)を受けること三度。かつ二度は右派帽子をかぶった。これはマルクスがいうところの疎外(異化)ではないか。この種の受難は、この種の疎外は、全国で百万千万の人が経験したところだ。けれども彼らは顧准を含めて、おそらく誰もこの種の思想準備がなかった。またマルクスが言うには、困難を受けた人は思考し、思考した人は困難を受ける。そこで多くの受難者は思考者になった。しかし知識分子にすれば、受難後の思考は、一般に自己の「誤り」の「反省」を超えるものではなく、原罪感すら伴って、不明だったことがはっきりするものであった(想不通也得相通)。しかし顧准の思考とその趣は多いに異なっており、一連のもっとも根本的な問題を常に考えていた。人々が習慣的に深く考えもせずに受け入れている説とか、証明をする必要ないとみなされ公理となっている説に対して、彼はすべて新たに思考し、質疑を提出し、補充し制限修正を加えた。
 1959年以後、私も困難な中で、やはり考えた。顧准が『理想主義から経験主義へ』を書いていた時、私は一人秦城の囚人室にあって、八年の中の最後の二三年、『資本論』『マルクスエンゲルス全集』などの書物を読んだ。私はいくつかの問題、たとえば我が党歴史上のいくつかのことは失われてはならないこと。何人かの人物の功罪。繰り返し考えた。マルクスの剰余価値学説、『ゴータ綱領批判』など、やはり得るところがあった。しかし顧准の思考は十分深く、十分広く、さらなる成果があった。本当に多くの根本問題について、私に言わせれば彼は先覚者(先知先覚)だ。これは彼が系統的に経済学を研究したことに関係がある。彼はまず本当の経済学者だ。マルクスの剰余価値学説について、(あるいは)商品経済と価値論などについて、彼のように深く,かように透徹して考えた人は、当時極めて少なかった。20世紀80年代、孫冶方は私の家の向かい側の隣だったので、我々はずいぶん話すことができた。彼は50年代に価値規律の尊重を唱道した。現在、私が知るところでは、この方面で顧准から啓発を受けた。この点だけでも顧准はほかの人よりすごかった(更厲害)。顧准の
p.146   晩年の思考は、経済にとどまらず、政治、歴史、哲学、文化など広範な領域に及び、中国と人類の運命の根本的問題に着眼していた。彼はずっと「(社会主義に)進んだあとどうするのか?」「無産階級が政権を奪取した後、どうすべきか。」。「中国の現代化民主化はなぜこんなに間違ったのか(爲何命運多舛)」などの根本問題をひたすら考え、苦しみながら考え、答案を求めた。それゆえ彼は一般的経済学者ではない、突出した思想家なのだ。彼はただ自らだけに責任を負う人ではない、中国の歴史と人類の歴史に責任を負う思想家なのだ。わかってほしい(人们啊)、この種の歴史責任感がなんと貴重なことかを!
 (王)元化は顧准の思想は10年早かったと言っている。一般学者と対比するまでもなく、彼の思想は大いにそれまでを超えている。少し前に、私はかつて改革解放事業に積極的に貢献された老同志とあったが、彼が口を極めて賞賛したのは、顧准は現れがたい思想家だということだ。
 顧准が読んだ本はとても多い。彼は経済学方面の本を読むだけでなく、外国の歴史を読み、政治、哲学そして自然科学(の本を)読む。彼は英語がとてもでき訳書も多い(翻訳の経験を言っている。訳注)。彼は西欧文明の起源であるギリシアの歴史の研究を志し、『顧准文集』の最初の部分は十数万字からなる『ギリシア都市国家(城邦)制度』である。彼は中国古代の”史官文化”を研究し、老子,孔子、韓非(子)を研究している。彼の知識は広く、とても全面的だったが、これは、かれが突出した思想家となるための重要条件の一つである。
 もう一つの重要条件は彼の理論勇気、実事求是の勇気である。かれはすべての既成のもの(現成的)、権威に対して、人々が正確で疑いないと考えているものすべてに盲従しなかった、マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリン、毛沢東すべてに盲従しなかった。かれは現実から、すでに人々が到達している思想から出発して、権威が疑わずに肯定するものに対して、すべて胆量を放って思考を新たにした。顧准の思考の中心は、いかに独裁を克服するかであり、いかに民主と科学精神を発揚するかにあった。かれは四人組の封建ファシズム独裁の環境のなかに身を置きながら、得たところを書き始めたがそれは、大量の大きな勇気が必要なことだった。それは
p.147  (宇宙の無限を主張して)火あぶり刑に処せられたブルーノに類する崇高な精神であった。

この100年の歴史には反省が必要である(這對一百年的歷史有一個反思)

   我々はこの時代の人間である。20世紀の人間だといえる。20世紀に起きた変化を我々は基本的に皆経験した。我々の時代の人間の一生の道路は間もなく終わる。このときにあたり、この百年の歴史を反省するべきだ。顧准は最も早くこの反省を始めた。古代のギリシア、ローマから第二次大戦まで、マルクスからレーニン、スターリンまで、孔子から毛沢東まで、資本主義から社会主義まで、かれはすべてに深く立ち入って反省した。彼は古代の歴史を研究し、また中国共産党の歴史、無産階級独裁の歴史を自ら経験した。彼の理論の修養に加えて彼の理論勇気は、彼の反省を人が驚く深さにまで到達させたが、それはみな『顧准文集』なかんずく『理想主義から経験主義へ』というこの著作中に反映されている。彼の仕事は生きている人間によって引き継がれるべきだ。我々の中国20世紀の歴史は一体何であったか、開国以来の歴史は一体何であったか。ソ連東欧の変化は一体なにであったか?
 20世紀の人類最大の変化はマルクスに由来する。マルクスが考えた共産主義には空想の面があった。マルクスが考えた社会主義は、生産力が高度に発展した結果であり、資本主義制度が受け入れられない産物だった。ロシア革命と中国革命はともに、経済が比較的遅れている国家に発生した。発展水準は西欧よりはるかに低かった。レーニンから毛沢東まで、建設した社会主義は、マルクスが考えたものと同じではない。このように言える。マルクスからレーニン、スターリン、毛沢東まで階級闘争の作用を少し強調し過ぎた。あらゆる無産階級革命家は、ロシアから中国まで、マルクス主義に対し、少なくない誤解曲解をしている。精神が物質を改変すると、上層建築が経済基礎を改変すると誤って信じた。ソ連は失敗し、スターリンは失敗し、
p.148  毛沢東もまた失敗した。レーニンが痛烈に排斥批判した第二国際インターは、北欧と西欧の資本主義国家に、実際は(倒是)新たな血液を注入し、また北アメリカにも影響し、資本主義を”瀕死段階(垂死階段)”に進ませることなく資本主義の生産力なかでもその科学技術の作用をさらに発展させなお進歩させつつある。マルクスが考えた三大差別の縮小は現在このような国家に体現されている。顧准はこの情況と問題すべてを深く研究し論述している。人類のあらゆる良いものは当然継承されるべきで、誤ったものは当然避けられるべきだ。マルクスの思想のどこが正しかったか、どこが空想で、行為として理解できないか(行不通的)。レーニン、スターリン、毛沢東が正しく行ったのはどこで、間違ったのはどこか。一体どのような問題が、理論問題あるいは実践問題で、明瞭でなく誤りとなるのか。マルクスの社会理想は、精神の自由と物質の自由を含めて、自由人の連合体を作ることであった。マルクスの理想の共産主義は、一種の全く新たな人を創造することであり、自由こそ人の本質であった。「各人の自由がすべての人の自由の条件である」。人は自然、社会そして自身の本当の主人にならねばならない(人將成爲自然,社會和自己的真正主人)。我々が存在する歴史時代においてはなお多くの重大なあ未解決問題がある、例えば戦争、(経済)発展、貧富、民族、宗教、国家と国家間に発生する矛盾、さらに人類と自然環境の関係問題などなど、我々は楽観しかつ楽観しない。ただ一点明らかであるのは、人類社会は前進する、資本主義もなお前進するということだ。
   自ら改革開放を実行して以来、われわれの中国社会主義は前進している。当然、この社会経済の構造の転換(轉軌)の過程において、困難危険(艱險)はない、苦痛がない、誤りがないということはありえない。ただ我々が改革開放の大きな方向を堅持する前提のもとで、適切な対策をとることで、誤りは正され、正確さは堅持され、これらはすべて最終的には克服され取り除かれると信ずることができる。けれどもある人(権威を持っていると信じられた人)がこの情況を見て、生み出された原因を分析に向かうことなく、克服する方法を提出するわけでもなく、ただ人々を怯えさせ(危言聳聽),すでに国家の安全に影響が及んでいるとか、今後の10年は政治上波風静かな10年にはならないとかいって、改革開放の大きな方向を
p.149  全面否定している。けれどもこのような「理論家」は多くを唱えることはできるが、ただ古びた話を繰り返すだけで(老調重彈)ただ「左向け」「右向け」と叫ぶことができるだけである。われわれはすでにあのように巨大な代価を払ったのであるから、過去の古い道に戻っても出口はないこと、これはなお論証の必要があることだろうか。さらに言えば、誰がこの転換(回天:扭轉)の力をもつだろうか?
 現在、市場ではニセ粗悪商品の摘発(打擊)について大きな決意が下されている。またすでに成果もみられる。(しかし)文化出版の領域では同程度のニセもの取り締まり活動はなお見られない。一握りのニセで粗悪な「理論家」がなお関心(保護)を払われ。ひたすらもてはやされている(頗爲風光)。ニセの粗悪な理論をもてはやして、現行の開放改革の方針の図書雑誌に対抗すれば、相変わらず誤りを犯さずにはすまない(仍炤出不誤)。
 少し前にOECD(經合組織)が発表した研究報告のまとめを見た。(1995年12月30日31日《参考情報》を見よ)世界経済の200年の歴史を回顧した報告で、1820年に中国は世界最大の経済強国で、インドやフランスの前に位置していた。さらには米国、プロイセンの前だった。その後落ちぶれて、後ろに行った。報告は各種類型国家の経済発展状況を分析し、中国が遅れてしまった原因を、我々が我々自身の思考を啓発できると誤ったこと(にあるとした)。顧准タイプの思想家に思考を求める必要はとても高い。この研究報告の予言は、中国は今後10年以内に世界最大の経済力量に発展するというもの。これはまさに顧准が行った予言と対応している。彼は亡くなる1年前、個人としてすべてを失い、困難を極めた情況のもとで、楽観的に予言した。もしわれわれが「問題の所在にはっきりと探し当てさえすれば(看到)、・・・現実に即して(實事求是)、教条主義ではなく客観的実際的に対応できれば、我々の国家は間もなく経済上世界に雄飛するであろう。」(《顧准文集》 第330頁)。この言葉は1973年6月11日のもの。このことからわかるように顧准は単に深い思想家であるだけでなく、正確な予言者でもあった。

p.150    勇気をもって、もっとも根本的な理論問題を考える(敢於思考最根本的理論問題)

 エンゲルスが上手に言っている。「民族が科学の最高峰に立つのに必要なものは、一時(いっとき)も理論を欠くことはできない思考である。」(『マルクスエンゲルス選集』第三巻第467頁)又言っている。「それぞれの時代の理論思惟は、我々の時代の理論思惟を始め、すべて一種の歴史の産物であり、異なる時代においては大変異なる形式を備え、また大変異なる内容となる。」(『マルクスエンゲルス選集』第三巻第465頁)我々の民族が誇ってよいことは、科学的最高峰に立っての理論思惟を行ったものとして、顧准という思想家を我々は持っているということである。彼はギリシア文明の研究から始め、東西の文明、科学と民主、マルクス主義の起原に至るまで、すべてに歴史的考察を行った。資本主義の英国で発生した原因を研究し、マルクスが歴史の制約(局限)を受けていることを見抜き、マルクスが行った提起や仮説に疑問を提起した。当然、彼の関心は彼の祖国にも向かった。顧准は言う。「この百年、中国人はマルクスが当時のドイツに対して抱いたあの感慨:我々は、・・・資本主義が発展していない苦しみにあるーを深く感じている。」(実はレーニンは十月革命前、毛沢東は1949年前に、ともに同じような話をしている。)顧准は提起した、「科学と民主を確立するためには、中国の伝統思想を徹底批判することが必須である。」ともかく民主と科学から、彼はいつも権威主義に反対した。彼は民主集中制の得失を論じたとき(こう述べている)「もし科学研究がこの種の制度のもと多少妨げられるという話なら、それは人文科学と哲学である。というのはこれらの領域はまさに権威が独占的判断権を保留している領域だから。しかし権威は集中させるための、意見が集中できる源泉である。時により開門できるが、しかしいつもは開かれていない。それは半開門に過ぎない。」「私は半開門には不賛成であり、私は完全な民主を主張する。科学精神はこの種の民主を要求するからである。」(中略)

p.151
 顧准が書いた多くのものは保存されなかった。『理想主義から経験主義へ』は彼と弟とのやりとり(通信)で、出版を考えていなかったものだ。現在、改革開放を経て、中国経済領域内の実践は、ある方面では顧准ですら考えつかなかったところに(進んでいる)。マルクスの社会主義は、市場経済の否定であり、商品交換を否定し貨幣は存在しないものである。しかし市場は無形の手であり、超越できない(不能逾越)。中国の今日の経済改革はすでにマルクスを超えており、はるかに進んでいる(這很了不起)。しかし政治上はただ行政改革を行っただけで、民主化の進展については、顧准の思考からはるかに遅れ及ばない。腐敗は権力から生まれる。絶対権力は絶対腐敗に至る。今日出現した王宝森(1995年4月4日自殺した北京市副市長、北京市財政局長。公金横領などの罪で後に党籍を解除されている。)現象は避けられないものだ。実際上、一部の地方では大小の王宝森は少なくない。一部の郷村の幹部は農民に対して生殺与奪の力を持ち、人を不安にさせる(使人觸目驚心)。早くも1980年に、鄧小平は《党と国家指導制度の改革》における重p.152  要な講話の中で、この積年の病(積弊)に対して一連の民主貫徹する基礎改革措置が提起したが、多くの年を経ても成果(落實)を見ないのは残念である。この講話の措置が本当にすべて実を結ぶことができれば、権力が腐敗に到る類の問題は、次第に解決に至ることが出来ると信じることができ、我々の政治、社会環境に新たな現象が出現することだろう。
 《顧准文集》が出版できたことは、歴史の安らぎ(安慰)である。この1冊の本は我々の視野を大きく広げてくれる。中国は改革され発展せねばならないが、理論なく、思想なくはいけない。顧准の思考は、我々の知恵を啓発し、われわれの改革開放事業、そしてわれわれの国家と社会の進歩にとって有益である。彼は正しくマルクスを理解しており、彼は本当に愛国的である。しかし彼が迫害の末に家族を失ったこと、この種の悲劇は再び演じられるべきではない。我々は次のような環境をつくらねばならない。顧准のような思考が再び迫害を受けない、顧准の精神が伝播され、発揚されるような(環境をつくらねばならない)。孔繁森(この原稿が書かれた当時 共産党が学習対象とした人物名)は優れているから、学習が提唱されるべきだ。(しかし)顧准はもっと優れている、彼は現代の思想史の先駆者である、(孔繁森以上に)さらに学習が提唱されるべきだ。
    顧准を学ぶには、私が考えるに、まず彼の自身、歴史、中国そして人類の前途に責任を負う精神を学ばねばならない。理論思惟は、現実から遠く離れた抽象概念であるべきではない。顧准は《資本論・原始的蓄積の章》と《共産党宣言》を読んだメモの中で述べている。「歴史の探索は、人類に服務する志を立てた人からすれば、すべて目の前の現実を改革し、未来の方向を企画するためのものである。」(《顧准文集》第311頁)ここで彼はこのようにマルクスを賞賛(贊許)しているが、実際は彼自身もそうしているのである。 
 次に、あえて最も根本的な理論問題を思考する必要がある。顧准はまさにそうしたのだ。すべての志のある理論工作者はすべてこのようにすべきで、(マルクス、エンゲルスを含め)誰であれ既存の教義上に寝そべることはできない。喜ばしいことに、近年こうした人たちが次第に増えてきている。最近読んだ私が尊敬する理論家の長編論文は、20世紀が始まってからの世界歴史の変化と目の前の現実を根拠に、(レーニン主義を含む)マルクス主義のp.153   一連の疑いを置かれていない基本原理を回顧し、新たな理解と批判を加え、併せて長期にわたるいくつかの誤解曲解を解明(澄清)している、論証は深く説得力もあり、読後啓発されるところは大きかった。我々の理論界が百家争鳴の雰囲気の中で、さらにおおくの顧准の出現させることを希望するものである。

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