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大悲願寺

 建久2年1191年平山季重が醍醐寺三宝院の僧侶を招いて開山。真言宗豊山派のお寺である。
 近くの広徳寺が、建物の年代がほとんど確定されていないことと比べると、大悲願寺では、それぞれの建物の年代などが明確である。また広徳寺では茅葺が残っていてその傷みが目立ったが、大悲願寺の場合は、茅葺はすでにかなり前に瓦や銅板に置き換えられている。そのことと関係があるのかどうか、大悲願寺には大きな幼稚園が併設されていた。公共交通機関でのアクセスはいずれも正直よくない。大悲願寺の場合も、公共交通機関でアクセスするときは、五日市駅から徒歩では20-30分かかるので、駅からタクシーの利用を促したい。
    なおこの寺については、岡田耕さんが紹介されている伊達政宗の白萩の故事がある。ただ現存の建物などは、この故事(元和9年1623年)があって以降に建てられたものなので、往時のこの寺の様子は想像するしかない。

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   この寺を訪れて、最初に目にするのは「仁王門」だろうか。これは安政6年1859年に建て替えたものという。その門に入って天井には、地元の絵師による天井画が残されている。その仁王門の奥にあるのは「観音堂」である。これは寛政6年1794年建立のもの。ただし観音堂軒先や欄干の彫刻装飾は、19世紀に入ってから時間をかけて付け加えられたものとされる。天井画や観音堂の装飾は、もちろんそれを人々が見に集まることを想定したもの。村人と関わろうとする寺の姿勢がそうしたところに感じられる。

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 観音堂の右手前には、鐘楼があり、梵鐘は寛文12年1672年のもので、第二次大戦中の供出を免れたもの。また観音堂右手には大きな本堂があるが、これは元禄8年1695年建立とある。
 寺の中を歩いていて少し異様に感じたのは、古いお寺なのに境内に古い石仏とか庚申塔などが見当たらず、境内に置かれた石仏がすべて新しかったことである。これはまだ理由がわかわらないが、明治の初めの石仏などを排斥する運動がこの地は徹底していたのかもしれない。
  アクセス 五日市線五日市駅からタクシーを勧める。

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