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王復興「文革中の心の歩み(下)」2018

訳出の対象は王復興「我的文革心路歴程」『中外学者談文革』中文大学出版社2018年pp.305-316  これを2回に分けて訳出する。今回後半はpp.309-316まで。著者は出身家庭に問題があるとして、紅衛兵活動に加われないなどの「屈辱」を経験する。そこから極左派に批判的になってゆく。さらに卒業後、1971年の九一三事件(いわゆる林彪がロシアに亡命しようとした事件)、さらに1975年の天安門事件を経て、文革やそれ以前の教育の影響から次第に離れたことがつづられている。

p.309                    三 挫折(経歴坎坷)と反左
 文革前、大学の同窓生で家庭出身が「黒五類」(地主、富農、反革命、破壊分子、右派)のものは、入党入団は容易でなかった。大学入試では一般に合格しなかった。しかしこれらの人と
p.310    同窓生先生との関係には影響しなかった。成績が優秀だとか、あるいは運動場での振る舞い(表現)が素晴らしいので、同窓生に歓迎されるものもいた。(しかし)文革が始まると「父親が反動の子で道理の分からない人(老子反动儿混蛋)」これらの人々は別分類で二等公民の地位が過ぎないことが明らかになった。家庭出身の原罪を背負う同窓生は、階級闘争の対象になり、わたしは自身と家庭の境界を明確に区分する革命機会はもはやなかった。1966年8月上旬のある日、38楼北側の部屋の中で、クラス全員の同窓生が輪になって床に座って会議が始まった。貧下中農出身の班長高発元が突然言った。「みんなは知らないことだが、王復興は米国から帰ってきた。彼の父親は右派だ。王復興は運動の中でよく思想を改造する必要がある。」私は全く心の準備がなかったので、たちまち混乱した(懵了)どんな話もできなかった。会のあと、心情はとても苦しかった。党の政策は「態度(表現)を重んじる」というもの。しかしなぜ私の努力はすべてダメなのか?父親に問題があれば、私は革命できないのか?私は7歳で米国から帰ってきた。それですぐに特務(スパイ)の嫌疑がかかるのか。私はこれは「左派幼稚病」「関門主義」だと、他の人に革命を許さないのは誤っていると考えた。私は家庭の包み(包袱)を開かないことを決めた、毛主席としっかりと一緒に、文革の大風大波の中、自己を鍛錬し、堅固な無産階級革命派とする。道は自分が歩むもので、私を阻むことは不要である。当時毛沢東支持の中学第一批紅衛兵が全市各所「血統論」を宣揚する对联「英雄の子供はいい人」「反動の子供は道理の無い人」を張り出した。これは北京及び全国各地に形成された思潮で、影響はとても大きかった。
 8月中旬、北京大学には幾つかの系で首批大学紅衛兵が現れた。歴史系一年、二年級では趙恵生、徐博東ら何人かの革命幹部の子弟を中心に、多くの工農子弟を吸収して、「毛沢東主義紅衛兵」が成立した。我々の班の大部分の人は皆参加資格がなかった。「主義兵」成立後、五四運動場では前校長陸平に対する批判闘争大会が開かれた。
 この時、中央文革は大連携のスローガンを出した。学生が汽車で移動するのは無料となった。私も外出連携の準備をした。同じクラスの張某はそれを知った後、ある日突然、八九人の歴史系一年級の主義兵を引き連れて、私の住んでいる宿舎の部屋にまでやってきて、私に連携外出を許可しないと命令した。同じクラスで同室の友王淵濤(出身下中農)がちょうど部屋に入ってきた。「主義兵」がいっぱいでふさがっているのを見て、部屋を出ようとしたときに、張某は言った。「君も座ってちょっと聞いてくれ」と。張は私に聞いた。「我々紅衛兵は君の父親の家に家探しに行かねばならないが、君はどういう態度か?」私はかれらのやり方を認めるわけではないが、自身が文化大革命を支持していることを表すために、頭皮を固くして大声で答えた。「いいですよ。今行っていいですよ。私と皆さんで一緒に行きましょうか?」張が率いる「主義兵」は、
p.311  「毛主席万歳」「無産階級による文化大革命進行の徹底」などのスローガンを数回高らかに叫んだが、家探しにはゆかなかった。
    私は連携を禁止され、さらに深い苦悩に陥った。大連携の自由を失っただけでなく、たちまち独裁の対象になってしまった。しかし密に反感を強めた。貴方たち「主義兵」は一体何か?命令とは何か?「自分たちだけが左で偉い」として、ほかの人に革命を許さない。王淵濤は憤慨して私に言った。「彼らは「自ら赤くなったのか」?生まれながらにして他人より高く生まれたのか?」同じクラスの徐森は、このことを聞いたあと、同じく十分憤って、外に連携に行かないと言って、学校の中で私に付き添ってくれた。この二人の同窓生に私は大きく暖められた。逆境の中、私は人間性の良さ、友情の美しさを見た。
 8月のある夜、ちょうど寝ようとしているときに、大声で門をたたく人がいた。妹の王丹娜噶が自転車で数十里走って私を探しにきたのだった。彼女によると、隣には地主が住んでいたが、紅衛兵により殴り殺された。彼女は紅衛兵が家探しに来ることが怖い、母親は抑えられない性格なので、もし人に言い返して、けんかになって、不幸にも殴られて死にかねない、どうしたものかと。私は、彼女に、紅衛兵と喧嘩することは決してできないとママに伝えるように言うしかなかった。妹は自宅に帰ったあと、家の中の古い写真をすべて焼き、古いレコードをすべて壊した。(数十年後に父は手紙を書いて私に述べた。文革時我が家の紅衛兵が造反し、古い写真をすべて焼いたのは惜しいことだと。わたしは父に伝えた、妹は当時、紅衛兵の資格はなかった、彼女は造反したのではなく、自分を守るためだ、写真を焼いたことは些細なことだと。)のちに本当に中学紅衛兵の一隊が我が家にやってきた。西四中学紅衛兵とのこと。この家は地主資本家だと聞いて、家探しにきたと。姉の王端が父が国務院参事室参事である証明を取り出し、併せて我が家は地主資本家でないと説明し、派出所に行き問い合わせることができると。彼らは派出所に行き質問し、我が家は確かに地主資本家でないと確認し、この災難は何とか切り抜けることができた。
 同じクラス(班)の徐森、王淵濤、俞政、張文虎と私はよく話した。友に紅衛兵ではなかった。出身が良いのは王淵濤だけで、ほかの人の出身は「職員」、私の家庭問題は最大で「黒五類」だった。我々五人はみな「血統論」に反対だった。9月初に皆で議論した。中央の「十六条」は群衆に組織する権力を与えた、群衆は紅衛兵を組織できる、我々が組織するのはどうか?そこで皆で徐森を隊長に推挙、「紅梅戦闘隊」を組成した。紅梅は厳冬を恐れない象徴である。のちに化学系の陳雙基と中文系の馬西沙も参加した。当時一緒に集まり、「毛沢東選集」中の1945年「若干の歴史問題決議の関して」三次の左傾機会主義に対する歴史結論を学習し、我々の反左の依拠するところとした、ことを覚えている。
p.312 1966年12月、中央は公告を出して、大中小学生に連携活動(串聯)を停止して、学校に戻り「授業に戻り革命すること(复课闹革命)」を求めた。1967年1月8日解放軍軍訓団が北京大学に進駐した。(しかし)1ケ月も経たず2月18日軍訓団はたちまち撤退してしまい、授業に戻ることは起きなかった。また文革が収束するいかなる事象も見ることがなかった。おおよそ2月末のある日、徐森と私は晩飯後、歩きながら、徐森は言った。「現在到るところが混乱と不安が広がっている(兵荒马乱)、国家はなんとかわりはてたか!人々は敢えていわないが怒っているんだ(敢怒不敢言)。」彼の大胆な発言は私を驚かせ、すぐに言った。「決してどこでもそういってはいけない。絶対だよ!」心で思った。彼は今、文化大革命を否定したのか?これが伝わったら「現行反革命」で捕まるんじゃないか。同じような話を彼は、張文虎、俞政、王淵濤にもした。彼は心があまりに痛かった(太憋闷)反動集団に言いたいことがあり(对几个死党讲讲)我々が彼を売らないことを知っていた。(1967年)1月上海の造反派は党政指導権を奪取した、これは「一月の風暴」(「一月革命」などと)呼ばれ、全国の造反派は各地で「奪権」を開始した。混乱があった。我々は皆とても困惑した。誰もが話をできなかった。中央文革と自分とを固く結びつけ、形勢の理解に努めた。我々が受けた一貫教育は、理解するときは堅く一緒に、理解しないときも同じく固く一緒にというものだった。情勢が混乱する中、固く一緒にという目標は不明確になり、我々は自ら形勢分析を開始し、極左思潮に反対すべきであると考え、極左派の代表的人物、例えば科学院社会科学部の呉傳啟、『紅旗』雑誌の実際工作を主に行っている林傑を批判し、これらの人の支持者には中央文革小組の誰かがいると考えた。王力を疑い、關鋒は問題があると。
 1967年7月、王淵濤、陳雙基、俞政と私の四人は一緒に長編の壁新聞「反革命極左思潮を評する」を書いた。当面の主要危険は極左思潮にあると指摘した。すなわち「すべてを疑い、すべてを打倒し、すべて破壊する」誤った傾向を指摘し、反右ではなく反左であるべきだと。呉傳啟を名前を挙げて批判し、併せて彼の支持者がいるとして、当時地位があきらかだった、林傑、關鋒に光を当てた。これらの極左思潮は文化大革命を破壊する反革命であると。今日この壁新聞を反省すると、左の方向を批判したことは正確だったが、極左思潮を反革命の高さまで持ち上げたことは、政治原則(上纲)をあまりに高めている。文革の考え方、依然として階級闘争、無産階級専制下の継続革命の思想方式になっている。
 1970年3月卒業離校のあと、二つの大きな衝撃を受けた。1971年の「九一三事件」そして1975年の「天安門事件」は、私を次第次第に覚醒(开窍)させた。
 1971年9月13日、林彪、葉群、そして子の林立果と随員は三叉戟飛機に乗り国境線に飛び出し、モンゴルの温都爾汗に墜落分解した、いわゆる「九一三事件」である。
p.313    私は当時河北省安国県の中学で教えていた。12月初、冬休みで北京に戻り春節を過ごしたとき、誰もが皆こっそりと事件を論じていた。非公式情報(小岛消息)が伝わっていた。全国各地では12月中に中央は「林(彪)・陳(伯達)反党集団反革命政変粉砕闘争」(材料之一)を伝達、批林整風運動を展開した。驚いて身震いしたが、頭の中を絶えず駆け回った思いは、林は毛の親密な戦友で、毛が後継ぎに選んだ人、九大では党章に書かれている、(それが)現在突然、反毛の反革命になった。つまり毛は人を見誤ったのだ。毛は何事をも明らかにできる(明察秋毫)攻撃を漏らさない(无懈可击)人ではなかった。毛の神聖な権威は崩れ始めた。
 1972年2月、冬休みが終わり安国中学に戻り。学校で「九一三事件」に関する中央文件の伝達を聞いた。その中で最も耳を震わせたのは中共中央(1972)4号文件(五七一工程紀要)。この「反面材料」は空軍で林彪の子の林立果を頭とする數名の若い将校が相談して起草したもの。<紀要>は紅衛兵運動を短く総括している。「紅衛兵は初期騙され利用された」「後期は抑圧され罪を背負う羊にされた」。これと私の文革の経歴は、内心正に符合していると感じ、<紀要>の当時の社会に対する現状暴露したことは、いずれも民間の重大事であった。たとえば、「青年知識分子の下放(上山下郷)は、労働改造と変わらない。」「国民経済はすでに崩壊の危機にある。」私は常識を用いて、事物の判別を始めた。社会の現状は一体どうなっているのか。<紀要>は何者も恐れない勇気で、毛沢東への公開譴責を進め、毛沢東を「B-52爆撃機」「ひき肉機」「秦の始皇帝に始まる中国歴史上最大の封建暴君」。「社会主義の看板を掲げた封建王朝をひっくり返して、正しく無産階級と労総人民のものである社会主義国家を建設する」との<紀要>が提起した綱領は、文革の暗く深い沈んだ時代の我々の深い思いでもあった。多年あとに、私と多くの北京大学校友が<紀要>について話したとき、誰もがそれが我々のような人が文革から出て、思想を解放する、重大な啓蒙作用をしたと考えていた。
 1973年冬、貴州の基層工作に配属された北京大学校友の陳雙基は、北京から保定に向かうところであったが、陳雙基それに私ともう一人の良き校友孟關霖が集まったときに、彼は提起した「現在国家は社会封建ファシズムになっている。われわれは秘密小組を作り、反攻するべきだ!」と。我々の相談は通信で頻繁に思想を交流、出口を探索、変化に向かうことになった。
 おおよそ1975年の12月のころ、鄧小平が右傾翻案風に反撃しているとき、私は冬休みで北京で年を越そうとしていた。ある日の午後、父が私が住んでいる小屋に尋ねてきた。彼は私に言った、固い表情で現在彼らの機関は運動をしている、無論「走資派」と戦うもの。あるいは反逆者、スパイ、反革命と戦い隊列を正すというもの、その批判闘争大会の都度彼は台上で闘争に付き合わされると。彼はもう死んだ虎であり「走資派」とは関係はない。しかし彼の情況はこうであり、生きることに意味がない。とても苦悩していると。-私は驚いてすぐに強く言った。「そのように考えることはない。必ずそのような考え方をする必要はなくなる。形勢は結局はそうはならない。各種の政策は必ず遅かれ早かれ現実的になる。国家がいつまでもこの様子であることは不可能だ。」父は次第に落ち着いた、固い表情も和らいだ。この時の父との会話を、私は母や兄弟姉妹ともまだ話したことがない。
 1976年3月から4月初清明の時、天安門広場で大規模な群衆による非暴力の平和的抗議活動が爆発した。百万の各階層の群衆が周恩来首相の逝去を悼むことで、「四人組」と毛沢東に対して不満を表した。4月4日中共政治局は毛沢東の意を受けて、広場の記念活動を「反革命性質」と認定した。5日の夜、広場は厳戒となり、北京には1万余りの民兵、公安人員、衛戍區部隊が出動し、木棒で人々を蹴散らした。6日、天安門広場の花束、祭文、祭詩は一掃された。8日、「人民日報」は「天安門広場上の反革命政治事件」という文章を発表した。この声の勢いが広大な「四五運動」は、明らかに毛沢東の推測を超えており、迅速に鎮圧された。毛はこのことにより、自身が行動させた群衆の対立面を公開した。「四五運動」は鎮圧されたが、しかし各階層の人民は文革中の大災難(浩劫)の中で次第に覚醒し、民主を求め、自由を要求し、専制に反対する。攻撃は直接「四人組」「現代の秦の始皇帝」を指している。この事件を経て、我々の世代の大部分は目覚め、文革を否定し、毛を否定し、普遍的価値を、自由、民主、人権、法制を考えるようになった。
 良き友馬雲龍は、卒業後, 河南に配属され労働鍛錬二年の後、河南長葛県城の五七専科学校で教師になった。1975年1月10日、毛沢東、江青の誤りを論じたとして密告(挙報)され、逮捕、大獄に入れられた。彼に与えられた罪名は「毛主席を攻撃し、中央指導する者を攻撃した現行反革命」である。彼の罪は当時は随時死刑判決に処することができた。幸い裁判の最後の尋問期間に、四人組が権力を失い、彼は命を取り戻すことができた。しかしようやく1979年1月19日に彼は無罪釈放された。彼が獄中に押し込められたのは1500日近い。馬雲龍の案件は当時河南省四大反革命案件の一つ。最初の密告の手紙は、直接中央の紀登奎(当時政治局委員、国務院副総理)に送達され、紀登奎の合意を経て河南省書記劉建勲が処理した。その後、省、地方、県の3クラスの公安、宣伝部門が連合専案組を組織し、馬雲龍に
p.315   偵察、立案、逮捕、拘留(关押)を進めた。逮捕執行の任務にあたったのは許昌公安局正局長である。
    毛沢東は1976年9月9日亡くなった。中共の慣例に依れば、このような特大事件は、先例に従い、反乱を鎮めて、政局の意地安定を図る。10月1日、許昌は中級人民法院に馬雲龍に対し公判をはじめさせた。主審法官は中院の第一のやりてだった。馬雲龍は運命が悪い方に傾いたこと(凶多吉少)を知り、全力で自己弁護すること(弁護士なし)を決めた。起訴状は「現行反革命犯」とする85項目の「罪状」を列挙している。「偉大な領袖毛主席を攻撃した」「無産階級専制を攻撃した」「中央を指導する江青、王洪文、張春橋、姚文元を攻撃した」「党の計画生育政策を攻撃した」など。いずれも言による罪である。馬は「毛主席に対し毛主席もまた二つの面がある」との言論をおこなったゆえである。公判での第一の罪は、まさに「毛主席を攻撃したこと」である。審理の時、馬は自己を弁護して述べた。「毛主席は「世の中のすべてのものは二つの面がある」と言った。」と。法官は述べた。「毛主席は英明偉大であり、いかなる誤りもない」馬は言った。「別のものは言わなかった(言ったのは毛主席である)、林彪を「後継者」に指定し、さらに党章に書き込めと。事実はこれが誤りであったことを証明したと」このようにして公判は9日進んだ。馬雲龍は一項目ずつ自己弁護し、八十五の罪状の審理は半分まできた。10月10日公判は突然止まった。10月6日「四人組」が逮捕され、10月10日その情報は河南の各クラス政府に伝わった。・・・
 馬雲龍が遭遇したことは、当時の大学造反派が文革後期に覚醒したことを反映しているだけでなく、中国の極左路線が狂っていることと、司法制度が乱れていることを反映している。
 卒業後、私と馬雲龍は1970年の夏、北京で会った。彼は我が家で一日過ごしたが、その後は会うことがなく、1998年北京大学の「百周年慶賀」再会した。久しぶりの再会で沢山話した。彼はのちに自身の獄中経歴を『獄中雑記』にまとめたが、内地の審査では2年出版が許されなかった。2016年初、彼の原稿の提出を受けて私が処理した(訳注 著者は現在米国在住。これは出版の手配をしたという意味だろうか。)。以上は彼の入獄の顛末をわたしがまとめてのべたものである。
 1986年9月、父は大百科全書出版社図書館主任の職を離れた。彼の「老幹部離休栄誉証」上、「参加革命工作期間」の欄があり、1948年と正しく書かれている。彼の身分は確認され、名誉回復された、しかし数十年にわたり受けた屈辱やそれが家族に及ぼした影響は埋め合わせることが出来ない、永遠に分かれてしまった弟にとり、(この)名誉回復は無意義である。
 文革の後、私には次第に私たち(子供)の父親への態度が不公平かつ残忍だと明らかになった。1997年反右運動四十周年の時、私は父に手紙を書いた、私は彼が1957年に右派とされたことを
p.316   誇りに思うと、民主自由を獲得しようとした先駆けであったと、当時(私)は、物事を理解せず、幼稚であり、関係を絶たざるを得なかったと。父は返信でこう述べた。「よく理解している。あれは時代の問題で、貴方もまた生きる必要があった。今後この話は不要だ。」我々父子のわだかまりは、四十年のあとついに消え去った。


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