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胡耀邦 地方行政を担う 1950-52

 胡耀邦伝 第1巻 人民出版社2005年 168-230
 陳利明 胡耀邦上巻 修訂版 人民日報出版社2015  156-190
 満妹 回憶父親胡耀邦上巻 天地図書2016 164-208

 すでに述べたように、1949年10月の開国大典に胡耀邦は出席している。また中国人民協商会議第一回全体会議にも。そこで統一戦線のもと、多くの民主人士、各民族、各党派、各界人士とともに協力して新中国を作るのだという思想を四川に持ち帰っている(写真は定泉寺石仏 左側に延寶七年1679年の銘が見える。)。
 1949年下旬 成都を解放軍が取り囲む形勢になり、国民党軍から造反(起義)が相次いだ。5つの造反のうち、胡耀邦は裴昌会の件を自ら処理した。国民党軍は、首領の蒋介石、胡宗南は前後して逃亡し、胡宗南が信頼した李文が5万余りを率いて包囲の突破を図るかたちとなった(12月24日)。激戦ののち12月26日に成都は解放された。
 これにより胡耀邦にとっては多年の戦いは終わり、ほかの軍人たちとともに地方行政に臨むことになった。すでに述べたように中共中央西南局(鄧小平が第一書記 劉伯承が第二 賀龍が第三書記)は川西北軍政委員会(賀龍が首班)に対し川北に党の臨時工作委員会を胡耀邦を書記,趙林を副書記として設けることに同意する。川北の政権は軍政委員会の経過措置を取らず、すぐに行署(行政の役所)として組織してよい、と伝えている。
 この時、胡耀邦は西蔵(チベット)に進軍する第62軍の編制(組織)、造反や投降した20万あまりの国民党軍政人員の受け入れ、教育改造で多忙だった。そのため発令から1ケ月余りを経て、川北地区に向かうことになった(1950年2月18日)。2月20日夕刻、途中で銃撃を受けるなど緊張した雰囲気のなか、南充市に到着している。南充は1949年12月10日に解放され、以後、趙林を中心に軍事管制委員会と臨時工作委員会が組織され、すでに最初の仕事は始められていた。
 川北は古い革命区でかつて1932年に紅四方面軍が根拠地を離れた後、当地に14の根拠地を開いたことがあり、多くの農村の子弟が紅軍に参加している。他方で張国焘の極左的肃反が幹部が大量に殺害された影響も残る。さらに国民党が大量の特務を潜伏させたところ。地元の武装勢力(土匪)もいる。他方ですでに1949年5月、山西の党学校では南下する幹部1万あまりの養成が開始された。10月下旬にはこれらの大量の幹部は、胡耀邦や賀龍とともに南下。川北地区担当の1680名の幹部は進軍とともに各地に配置され職務に従事し始めた。川北地区の3000名余りの地下党員と合わせ、これらは胡耀邦にとり大きなささえであった。
 1950年2月25日。南充市第一届各界人民代表会議が開催された。ここで胡耀邦は統一戦線の精神に団結を呼びかけている。
 胡耀邦は役所の人事において、民主人士を過半入れるよう配慮しその積極性に期待した。ただ党員の中には民主人士を見下すものもいた。そうした問題の反映であろうか。6月平武県で大規模な反乱が生じた(1000人暴動)。50数人が死亡している(なお満妹は事前に阻止された5.5反革命暴動について言及している。役所や銀行などを襲撃する計画があったが直前に阻止されたとのこと。満妹171)。一部の幹部が党の民族政策に反し、統一戦線の対象が動揺したとされるが、詳細は分からない。この事件に対し、胡耀邦は県の組織部長と会って、統一戦線工作に間違いがあったのではと詰問の上、地元で勢力のある宋北海を副県長にするように指示している。果たしてこの任命により、反乱した残党の掃討が進み、地元の民主人士も落ち着きを取り戻したのである。
   なお川北は民主中央連盟主席の張澜(中央人民政府副主席)の出身地でもあり、その面からも民主人士の意見や処遇に配慮する必要があった。
 1950年6月23日に川北区各界人民代表会議が開かれ、胡耀邦は「施政方針」を報告している。ここで胡耀邦は施政方針としてまず、武装勢力や特務を粛清し、革命秩序を堅固にすること。地租の引き下げを実行し土地改革の準備をし、農業生産を回復発展させること、などを掲げている。これに対応する形で農民代表から、まずは武装勢力や特務を粛清して社会秩序を安定させてから、土地改革に進むべきで、すぐに土地改革に進むことは混乱を招くとの発言がでている。また少数民族の代表が、施政方針の中に少数民族への言及がなかったのは大漢族主義という悪い伝統を引き継いでいると発言した。胡耀邦はすぐに拍手をしながら立ち上がって、少数民族を軽視しているわけではないとして、報告への補充を約束したとされる。
 なお「施政方針」の中で、人民代表大会の招集前においては各界人民代表会議が、人民参加の国家政権管理の主要形式であるとしていた。その後、発布した「各県市で開催する第二届第二次各界人民代表会議の指示」のなかでは、各代表会議において政府を代表する同士は、実際に即した工作報告を行い、辛抱強く代表者の意見を聞き、十分発言させ、批判と自己批判の機会とするよう指摘している。人民に批判(批評)の自由を与える、というのが胡耀邦の考えであった。

 施政における問題の一つは、急速に拡大した行政職幹部の作風の問題であった。南に下った1680人では不足したので、解放軍、西南局、そして地元の人士から幹部が選抜された。1951年末までに全区の幹部は4万3000人余り、農村幹部は9万人余りまで拡大した。
 事態が広範で一部では深刻であると考えた胡耀邦は、1950年6月から、官僚主義、命令主義、統一戦線への無関心(關門主義)、汚職腐敗に反対する整風運動を始めた。これは中央が反汚職、反浪費、反官僚主義の三反運動を1951年12月末に始めるのに比べかなり早い動きであった。
 摘発を進めるにあたって、胡耀邦たち指導者は逼供信というリンチによって自供を迫ること避けることと、証拠によることを求めた。自供だけでなく証拠を重視し、幹部に実地調査させた。こうした実地調査は冤罪を防ぐ効果があった。川北の汚職者は4000人余りと当初されたが、こうした厳格な反復調査によりその数は2000人まで半減している。
 また小学校の教師の政治学習の学習負担が過重になっていることを知り、小学校では三反を進めないこと、小学校での討論回数や時間に上限などを指示している(1952年春)。
 五反運動においても胡耀邦は、正当な工商業生産を保護する姿勢を商工業者との座談会で明確にし、五反運動も平穏に進んだ。

 こうした胡耀邦の考え方の背後には、生産の回復と発展が最も重要だとの判断があった。1951年春、土地改革への雰囲気が高まるなか、まず最初に春耕生産を進めることを上げ、土地分配がすでに終わった地域については、後に伸ばせる問題の解決は春耕のあとでよいとし、なお土地改革が終わっていない地区は減租引き下げの成果を固めること、などとしている。1951年春夏は自然災害が多かった。胡耀邦は災害対策がまず第一だとし、土地改革が遅れている場合は、土地改革は遅れて良いとした。こうした胡耀邦の政策もあって、川北の1951年の農業生産は1949年比順調に回復した。(土地改革において地主の扱いについて、胡耀邦は法を守っている地主に拷問など刑罰を課すことを厳禁し、またその家族を侮辱敵視してならないと指示している。胡耀邦のこうしたやり方は「和平土改」と左派から批判されるが、彼は動じなかった。川北の土地改革は1951年2月に開始され1952年4月に収束した。陳利明 169-172)
  1952年後半 川北等四区は合併して四川省となることになり、各区の党政幹部は一部は四川省、一部は西南および中央の各部門に移動することになった。1952年6月、川北区党委員会は中共中央の「胡耀邦は中央工作に異動せよ、7月末までに北京に着任せよ」との電令を受け取っている。

 胡耀邦の地方行政官としての経験や年数はたしかに長いものではない。ただ、中央が打ち出す方針に対して、自身の信念を持って盲従することなく動いてしかも成果を上げたことは注目される。

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