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華商股票交易機構の発展1870-1920

馬長林 華商股票交易機構の発展1870-1920 馬長林《中国古代金融》中国国際廣播出版社2011年pp.61-66

p.61   二 中国人商人(華商)の股票交易機構の曲折発展
 19世紀70年代から80年代初め、外国人商人が上海で開業した貿易会社(洋行)は
p.62  日増しに増加。1870年に上海の外国商人貿易会社はすでに200余りを数えた。通常各貿易会社は一人あるいは数名の代理人(買辦)を雇ったので、代理人の数は継続して増えた(與日俱增)。貿易会社へのサービスの過程で、代理人は大量の財富を蓄積した。統計によれば大きな代理商は一般に十万両に近い資産を保有した。外国商人がしばしば近代企業を開業する刺激のもと、多くの代理商、其れに一部の先進的習慣を身に着けた富裕商人や官僚は、西欧の株式制企業方式にならって、株券(股票)を発行し、社会に面して資金を集める、新式企業を開業した。一時の間に、輪船招商局,上海機器織布局,中國電報局,上海機器造紙總局,裕泰恆火輪麺局(即機制麺粉厰),駁船公司,公平絲廠など数十種の中国人商人企業の株券が時の株券市場に出現した。それゆえ1882年9月に、上海株券標準化会社(平准股票公司)設立が宣言されたのは、当時まったく驚くに当たらないことである。同社は、中国商人経営の株券会社であり、電報を使い人々に上海平準股票会社(上海平准股票公司)開業の趣旨を宣伝した。同社広告は今株券平準会社を特に設立することは幾つか良い点があると述べている。一つは平準会社(平准公司)はその会社の内実(底蘊のありか)を確かめることが(確訪)できる、それは多くの人の評価によるもので、株券の定められた価格と釣り合う、(価格が)上下するのはそれが適切だからで、各会社にメリット(利)がある。二つは初めて上海に来る人はまだ人生に慣れておらず(人生地疏)股票を買うほか出口はないが、平準会社は毎日株価が出され、買ったものはすぐにわかるが、股票を買ったものに利がある。三つは股票の価格の変動はしばしば保有者の気持ちをあわてさせるものだが、平準会社であれば、市場に流れる誤った話で惑わせることはない、保有し続けるものに利がある。四つは平準会社は股票の抵当貸付業務を行っており、股票を持つ人の緊急の銭の必要を助けることができる、難局を避けることができる、股票を保持してすることに利があり損失を受けない。五つ目に各会社というものは創業以来長くとも快速な効力はむつかしく、すなわち貨物を積み上げてしまい、また抜け出ることもむつかしいものだが、平準会社の創業は倉庫(倉棧)も大資本も必要とせず、支出を節約して成果は大きいので、利はこの会社にある。p.63   この宣伝は、多くの顧客を引き付けた。
    上海平準股票会社は役員(董事)が数名、正副執事が二人、公司事務を専門処理のほか帳簿方に二人、使い走りが二人、通訳が一人、書記が一人、庶務が一人、学徒が二人、当時上海でかなりの(頗具)規模であった。開業後、毎日各種の股票の市価を板の上に書き出して(寫在挂水牌上)、大衆に知らせた。同社で股票を売買する人は、払い込み票をもらっている。3ケ月後、同社は払い込み票を根拠に預り金となっている百分の二十を返済する(扣還回佣)。同社は毎数日置きに(新聞である)『電報』上に各種の股票価格を公開、最も多いときには三十余りに達した。人々の売買もかなり激しいものがあり、額面をこえる股票価格は少なくなく、輪船招商侷、開平煤鉱股票は毎股(面値は100両)は2倍から3倍半になり、湖北長東、鶴峰、熱河平泉等銅鉱股票もみな1倍半前後に高騰した。かつて上海でのんびりしていたものが、1882年11月に再び上海の外国僑民(外国にいる本国民)が、上海に到着してのち、当地の住民の話題が判で押したように一律株票の価格情況であることに驚いているが、これは当時株票売買を社会が注目していたことを示すものだろう。
 しかし、当時、股(票)を発行して社会資金を集める方式の中華資金企業は国内でなお始まったばかり、輪船招商侷など少数の大企業経営で効率(効益)比較良好なところを別にすると、中小企業が多く、とくに地方の各省が始めた企業は、管理と技術に等しく経験を欠き、前途の予測もことさら困難で、加えて多くの購入を熱望するもののカネは、自身の余裕資金ではなく、多くのものは股票が有利と聞きつけて、ちょっと銭庄などから借金してきたもので、それゆえ、風に吹かれて動く草のようなものだった。1883年、上海金融市場には上下変動定まらない兆候が表れ、市場の売れ行きは好調だが、股票の市価はこの影響で連続して下がった。同年7月、
p.64  かつて216両の値をつけた開平煤鉱股票が、120両に売り込まれ、10月には70両まで暴落した。もとの市価260両の輪船招商侷の股票はこの時90両だった。各省が行っている鉱業公司に至っては、等しく低い谷にはいっていた。この時ちょうど中仏(法)戦争(1983年12月から1985年4月)が起ころうとしていたときで、不穏な(動蕩的)時局は、金融の相場の波動を激しくした。10月上旬、上海北の二つの大銭庄が前後して倒産(倒閉)し、続いて不動産経営の富商の徐潤と、大絹(絲)商の胡光庸が相次いで破産した。この年の冬になると、一場の金融危機が上海全体を襲った。各種の金融と貿易活動はこれによりほとんどすべてが深刻な打撃を受け、開場良好だった上海平準株券紺紙公司もこれにより夭折した。中国人商人(華商)企業の股票はこの挫折(一蹶)で不振となり、二十年後、やっと次第にこの影響から抜けだすことになった。
 清朝末年の「工場を設けて自らを救え(設廠自救)」そして「外国製品に抵抗せよ(抵制外貨)」という世論(呼聲)は、清政府をして民間が企業を起こすことへの種々の制限を緩和したし、民族資本企業はこれにより一時の発展をえた。上海商務印書館、南通大生紡績工場(紗厰)などの資本を集める股票は社会上流通を始めた。同時に人々は鉄道権の回復を争い、自身で鉄道を行おうとする熱情が高まり、浙江鉄道会社(鐵路公司) 、江蘇鉄道会社、粵漢及川漢鉄道会社が前後して設立され、、社会に向け広く股(主)を募集し、股票売買は再び熱くなり、別の事業から股票取引経営に転じる大量の人々を引き付けた。光緒末年に、上海の紳商(勢力のある商人)王一亭、郁屏翰は率先して南市関橋で「公平易」股票商号を始めた。また孫静山なるものは九江路で「信通公司」をはじめ、股票売買の専業戸経営となった。同時に、股票売買を兼営するブローカー(掮客)はいつも毎日午前四馬路(今日の福州路)大新街(今の湖北路)の曲がった角のところの恵芳茶楼で集会した。この種の集会の名目は「茶会」であったが、実際はみなが情報を交換し(互通信息)、
p.65  品目の標拍板で取引した。茶楼に股票を求める人は、多くはいささかの遊休資金を抱えた茶商、絹(絲)商そして洋行買辦(外国人と取引する中国人商人:洋行や外国人が経営する企業:買辦であった)。午後になると股票取引を兼営するブローカーは、それぞればらばらの方向に散って(各奔東西)それぞれの顧客(たとえば京津幫,廣東幫,本幫)のための票號,銭庄として顧客に応対し(兜攬生意),あるいは自身の商号に戻り本業を経営した。これが即ち人々が中国人商人(華商)の股票取引の「茶会時代」と称するものである。
 茶会時代の股票取引は、なお原始状態であって、すべての取引(交易)は現物(現貨)であり、先物(約期)や定期取引(買賣)は存在しない。少量取引でしばしばブローカーが買ってから、一定のまとまった大きさになるのを待って、ほかの人に転売した。もしもかなり大きな売り主に出会い、ブローカーの財力が不足するとき。売出人はブローカーを売り手の代理人として、適切な買い手を待ち、取引が成功するとブローカーは一定の報酬(佣金)をとった。
 1914年7月、何人かの股票売買を専門に営むブローカーたちが農商部に書面を提出して批准を求めた。西欧商人の上海衆業公所の形式にならい、上海股票商業公会を設立したいと。会所は九江路渭水坊に設けられ、また股票売買市場が付設される。このときの股票取引方式は茶会時代のものの発展であり、市場を設けることのほか、公会は以下の規定を定めた。(1)各会員は毎日朝9時から11時まで固定時間で集会取引する。(2)受け取る報酬金は標準統一する。股票に記名することは取引手続気を煩雑にする。もとの報酬は券面価値百元ごとに一元あるいは五角であったが、股票を記名しないことで取引手続きが簡便になったので、受け取る報酬は0.25%とする。(3)毎日会員の集会が終わってのち、西欧商人の上海衆業公所のやり方にならい、当日の成立価格により相場表を編集し会員に別送する。(4) 取引範囲は現物と委託売買両種に分かれる。後者は金額が大きいので、売り手は最高あるいは最低価格を定める。売買が確定後、午後には引き渡しとなる、あるいは顧客に代わり売買する。当時、上海股票商業公会が扱った
p.66  種類は甚だ多く、公司股票だけでも二三十種は下回らず、ほかに公債票、鉄道証券、貯蓄票、引花税票などがあった。
 民国五六年の間はまさに第一次大戦で双方が勝負がつかないとき(難分難解)にあたり、国内の中国人商人企業はこの間隙を縫って発展できた。各種の公司股票の相場は上昇し、政府発行の公債信用もまたはなはだ堅固であったので、各種の股票取引は十分栄えていた。しかし間もなく段祺瑞政府は、日本帝国主義に励まされて、第一次世界大戦に積極的に参加し、民国元年の六厘公債未発行部分は軍費にあてられ、結果として政府信用が失われ、公債市価の暴落が引き起こされた。この後北京中国銀行と交通銀行は北洋政府が借金を支払おうとしたことで紙幣を増発、兌換を求める風潮を引き起こすと、北洋政府は中国銀行と交通銀行に兌換停止を命令した。このとき上海銀行の中国銀行分行はこの兌換停止命令に抵抗、名声はおおいにあがった。これは上海股票商業公会の会員に中国銀行と交通銀行の京鈔(両行が発行した兌換銀行券)に定期売買する競争をうみだした。取引金額は大きくなかったが、しかしこれは中国証券取引の歴史でいわゆる先物(期貨)取引の先例であった。
 上海股票商業公会は当初、会員はわずかに十三社だった。1920年には五十余社に発展した。当時、福建路、九江路そして漢口路一帯は、股票公司が林立し、すこぶる熱を帯びた華商股票市場が形成されたが、会員の資金が薄弱で、有力な銀行の支持がなかった。公会所が行った股票や公債の相場は『電報』など当地の新聞紙上に掲載されず、同時に歴史が長く実力も十分で特権を享有する上海西商衆業公所の激烈競争に直面して、経営に苦心は多く、多方面で力に差があった(多方周旋)。発展に曲折はあったが、華商股票仲介人(經紀人)は多年の実践で次第に経験を蓄積し、一組の取引方法と規則をつくりだした。それは1920年代初め正式に標準化された(正規化された)証券取引所が建設される基礎となったのである。

新中国建国以前中国金融史

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