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Friedrich A. Hayek 1899-1992 (2)

ハイエク By Donald J. Boudreaux
Cited from essentialscholars.org

 ノーベル経済学賞受賞の経済学者Friedrich Hayek(1899-1992)は20世紀の最も影響力のある思想家の一人である。そして彼の仕事には今日なお世界中のエコノミストや学者からの反響がある。ハイエクが亡くなって20年、彼の考え方は、政府がますます大きくなりより介入的になった時代において、ますます身近relevantである。Essential Hayek(このページの標題)はFraser Instituteの事業であり、本、websiteそして幾つかのビデオから構成されており、ハイエクの考え方を、通常の平易な言葉で説明しようとするものである。これはすべての自由を尊ぶ人々への支援である。
 1899年5月9日にViennaに生まれたFridrich A. Hayekは1931年に英国に移動した。London School of Economicsで教え研究するうちに、まだ30代半ばであったときに、世界で最も良く知られた経済学者の一人になった。彼の名声は、我々が現在活況と後退と呼び、当時景気循環trade cyclesと呼ばれたものの原因の調査から生まれた。
 1930年代において大きな落ち込みについてのこのような調査はとくに重要だった。そしてハイエクは活況と後退を一人で調査していたわけではない。同じ事柄を研究していたもう一人の経済学者がJohn Maynard Keynesであった。しかしケインズの活況と後退の理論は、ハイエクのものと完全に違っていた。純粋に理論的レベルにおいて、活況と後退の記述accountsが互いに大変異なっていただけでなく、経済不振を取り扱う政府の施策のための含意においてもまた異なっていた。ケインズの理論は、不況は大不況のようなものでも、より大きな政府支出により容易に治療できることを約束した。他方ハイエクの理論は反対に、不振経済をこのような容易に注射で治療できるいかなる希望も全く与えなかった。
 プロの経済学者の間で、ハイエクの理論はたちまち嫌われてしまった。ケインズ理論が時の勝利を得た。
 ハイエクにケインズが勝利した理由が何であれ、勝利は全面的だった。ケインズ経済学はすべてのところに現れ、次の40年間、経済専門家を完全に支配し、政策担当者の間で広い支持を獲得した。(そして)1940年代初めまでにハイエクはほとんど忘れられた。
 しかしハイエクが影になった(忘れられた)時間は短かった。1944年に彼は大西洋の両岸で驚異的なベストセラーになった本『隷従への道The Road to Serfdom(注意 全文266pのPDFです)』を出版した。この今では古典になった本の中で、ハイエクは、経済を中央で計画する試み、あるいは経済変動の下降から市民を守ろうとする試みですら、「隷従への道」を導くことになると警告した。ハイエクは、もし政府ができるだけ詳細に経済を計画しあるいは規制するのであれば、そして知識人と政治家の多くがそれを求めていたのであるが、政府は、市民を統制regimentせねばならず、多くの大事にされてきた自由を奪わねばならないことを示した。
 ハイエクは(しばしばそう述べたと誤ってされているように)ほんのわずかな政府の規制が不可避的に社会主義と暴政とを導くとは言っていない。そうではなくて彼が述べたのは、政府が経済を社会主義化するあるいは詳細に規制しようとする意図をより多くもつほど、その過程でより多くの個人的自由がますます握りつぶされるということであった。
 ハイエクの経済学的知性brillianceが溢れてはいるが『隷従への道』は経済学の本ではない。それはむしろ政治哲学の業績であり、それは専門の経済学者のために経済学に関することをともかく書くという所から離れ、より広範な聴衆に向けて社会の本質について書くことへの転換点だった。そして『隷従への道』の聴衆は広範だった。1945年に合衆国で人気のある雑誌Reader’s Digestが同書の短縮版を出して驚異的な成功を収めた(『隷従への道』はなお身近にあり人気がある。Reader’s Digestでのベストセリング成功から65年後、アメリカのテレビラジオのホストのGlenn Beckは自身のFox News channel programで『隷従への道』を賞賛した。その結果2010年6月ハイエクの1944年の本はAmazon.comで1位になりそれを1週間維持した)。
 (関心の)狭いエコノミストから広い社会科学者への自身の変化とともにハイエクは1950年にシカゴ大学に移動した。同大学での12年間、彼は経済学部の教授ではなく、社会思想委員会(所属の)教授だった。シカゴに居る間にハイエクは、自由社会を弁護する二番目の包括的な本-1960年に出版された『自由の原理(The Constitution of Liberty)』を書いた。
   続く30年の間に二つのより大きな思考の本がハイエクのペンから生み出された。3巻からなる『法、立法そして自由(Law, legislation and Liberty)』(970年代出版)、そしてハイエクの最後の本『破滅的自惚れ(The Fatal Conceit)』(1988年出版)である。(『法、立法そして自由』の)第一巻は(言語や市場経済のような)計画されない秩序と、(企業や中央で計画された経済のような)計画された組織との間の違いを巧妙に説明している。第二巻は、人気のある「社会的正義」という考え方がなぜ無意味であるかを説明している。第三巻は、ハイエクの理想社会がどのようなものであるか、その法的政治的構造を詳細に叙述するという、ハイエクの最も野心的試みを納めている。
 しかし『法、立法そして自由』の偉大な貢献は、法と立法(訳注 慣習法と制定法との差に思える)の間の基本的違いについてのハイエクの説明にある。イタリアの法学者Bruno Leoniの影響のもとに、ハイエクは、法とは、計画されず企図もされず自発的に表れた一組のルールである、と論じている。法は、普通の人々が日々の生活をする中での無数の相互行為から生み出されるものである。これに対して立法は、政府が意識的に企図して課している規則と命令の一組である。ハイエクはすべての良好な社会は、法と立法の組み合わせを使わねばならないが、その二つが混同されたときに多くの問題(mischief)が生じると信じた。
 『法、立法そして自由』の二巻三巻をなお執筆中の1974年にハイエクはノーベル経済学賞を受賞した。同賞をスウェーデンの経済学者Gunner Myrdalと一緒に受けた時にハイエクは、40年前ケインジアンの時流に飛び乗ることを拒んで以来失っていた専門分野での賞賛を回復した。ハイエクの親しい友人は、同賞が仕事をする彼の活力をいかに再び満たしたかを語っている。
 彼は(ノーベル賞受賞後)18年以上生き、その多くの時間、それまで以上に創造的で生産的だった。1988年に出版された『破滅的自惚れ(The Fatal Conceit)』は、政治的役人の裁量や民主的多数により支配された社会と対比して、進化したルールにより支配された社会の潜在的創造力について、洞察を深めている。


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