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上海(シャンハイ)証券市場の畸形発展と委縮1937-1949

馬長林「上海証券市場の畸形発展と委縮1937-1949」馬長林『中国古代金融』中国国際廣播出版社2011年pp.73-78

p.73 1937年八一三事変が発生後、上海にも戦火は及び、華商証券取引所は業務中止(停業)を迫られた。まもなく上海は敵に占領され、日本軍に包囲された「孤島」の租界においては、各種の経済活動がなお進んでいた。華商証券取引所の一部のブローカーと、
p.74   一部の新たに開業した錢莊(銀號)オーナー(業主)とは、華商証券取引所ビルの7階の廊下で先物取引市場を組織した。最初に主要に売買したのは国民政府発行の各種公債で、のちに国民党軍隊が敗退を重ねると、このような政府公債は次第に取引されなくなり、外国商人の株券取引が、隆盛し勢いを増し始めた。もともと日本軍が上海を占領後、多くの遊休資金がまた陸続上海に流入し、上海で新たに開業(開設)そして息を吹き返した(回復した)企業はとても多くなった。加えて占領された江南地区の大量の人口が上海租界に流入し、日常消費品需要量は激増、華商企業か外商企業は問わず生産量は上がらないことはなく、利潤は大きかった(利潤可觀)。通貨が絶えず膨張するときに、人々は貨幣価値を保持するために、次々に(紛紛)外商企業株券を購入、一時外商企業の株券は十分人気があり(熱門)、西商衆業公所の上場される各種証券は150-160種に達した。1939年に欧州戦争が勃発後、もともとは香港、シンガポールに向かっていた資金がまたさらに上海の外国株投資に流れ、同時に外国為替相場の激変から、これまでは外国為替投機を専門としていたものが外国株に転換、このため外商企業株券は高騰し、會德豐の株券のごときは、券面は10両にすぎないものが、市場価格は最高272元にまで達した。取引が盛んなときには西商衆業公所の毎週の取引量は三四百万株に達し、毎日の取引量は最多で132万余株に達した。それは西商衆業公所の取引の頂点であった。1941年に太平洋戦争が勃発すると、日本軍は租界に進軍し、英米企業はすべて(統統)敵資産であるとして、外商企業株券は日本軍により取引が禁止され、西商衆業公所もまた業務停止を迫られた。
 外商企業株券売買が禁止の目にあったあと、外国為替は凍結され、外国貨幣、金の売買も禁止され、遊休資金は華商株券に直行した(便向)。この時新たなメーカー(廠商)やいい加減な会社(滑頭公司)ですら機会に乗じて株券を発行した。当時発行された株券は、法律に約束によるのでなく、専門の管理機関もなく、すべての株券取引は
p.75   すべて各株券会社により、株券商号も自由に売買され、株券会社はこれにより大量に設立された。1942年の一年だけで開業した株券会社は127社に達した。1942年8月、汪精衛の偽行政院は偽実業部が制定した「上海株券業売買華商会社株券暫定執行規則」を批准し、あらゆる上海の株券商に対して、偽上海社会局に登録を申請を求め、批准を経て営業免許をうけたあと、資本総額の10%の保証金を納める(繳納)ことで営業できる。翌年6月までに267の株券会社と商号が登録されたが、ただ15社が批准されただけであった。だが間もなく、ある日本経済要員が上海に来て考察したのち、資金の正当な出口がないことが、暴利を得ようと(証券を)蓄積する(囤積)風潮が充満する(彌漫)経済病態、これはただ広範な証券市場を建立することにより遊休資金の流れる道をつくることで(疏導)改善することができる。主人がこれを表明すると、汪精衛偽政府はただ従うしかなかった。最近公布したばかりの「取り締まり規則」の廃止を宣布し、他方、汪精衛偽財政部は上海華商証券取引所に業務再開準備を命じた(飭令)。準備ののち1943年11月8日上海華商証券取引所は営業を再開した。日本人大友を顧問に、華商株券専門に営業。ブローカの数(名額)200人、当初批准上場された株券は108種であり、その60%は新たに開業した各種の紡績染色(印染)会社であった。
 なお華商証券取引所が正式に再開する以前に、中央信託股份有限公司は華商株券 31社の株券商号を率いるとして連名で汪精衛偽上海市政府に奏上して言うには、彼らは株券経営に従事して既に久しい、しかるに今華商証券取引所が再開されるのは、株券商号のこれまでの努力、獲得した経営権のまさにはく奪であるとして華商証券取引所の再開に強硬に反対した。汪精衛偽政府はこの31社の株券商号の提出文に配慮しなかっただけでなく、この株券商号は心理バランスが取れていないと考えた。しかし華商証券取引所が正式に開業後、強大な勢力がその暗黙に競争した。証券取引所場内交易は常に四分の一に過ぎず、場外取引が四分の三に達した。これは取引所の取引額に影響しただけでなく、汪精衛偽政府が関心を持つ毎月1000万元あまりの取引税収入に影響した。そこで1944年3月から汪精衛偽上海経済局は次々に30社あまりの株券商号営業免許をすべて取り消し(吊銷)証券取引を華商証券取引所だけが統制できるようにした。
 場外取引が禁止されたが、場内取引も十分混乱していた。新たに開業した各種の会社が春の筍のように現れ、つぎつぎに小額の株券を発行し市場資金を吸収した。実際にはこれらの新規開業の公司と企業は、多くは株での資金集めが実態(幌子)で,いかなる企業で何をなすかは実態がなかった(子虛烏有)。一般市民は事情が分からず、株券の騰落の真相は隠されていた、また新規発行株券の多くは小額面で購入しやすかった、それゆえ多くの人が一斉に群れで飛び立つ鴨のように(趨之若鶩)それを収入を増やす近道とみなした。1944年3月以後、株券の発行量が飽和を超え、同時に市場の貨幣流通(銀根)が収縮したので、株券価格は突然下落し、大多数の株券価格は最高価格の3分の2まで下落した。あるものは額面価値の三割四割になった。ここに至って大量に購入した人はようやく(方)しくじったことを知ったがすでに損失は累々であった。もっとも苦しんだのは労賃(薪水)に日々頼る階層である。いつも衣食を節約し、それすら倹約して、残した金で株券を買い、蓄財を望んだのに、大きな損失を被ったのである。
 証券取引の混乱、社会的に批判の声は絶えなかった。当時の経済導報社代表は汪精衛偽上海市長陳公博に文書を提出し、華商証券取引所が投機を助長して、空売り(抛空)の情報を隠蔽しているとして、政府に人を派遣して徹底調査を求めた。しかし責任を求めれば、華商証券取引所はつまるところ日本人が顧問にあたり、また定期的に汪精衛偽政府に少なくない取引所税を納めているのであり、
p.77  当然いかなる調査、処罰を受けることにならなかった。
    1945年初め、日本が太平洋戦場で勢いを失うとともに、華商証券取引もまた低迷に陥り、取引所内で実際になされていた華商株券(取引)は永安紗厰など十四種に過ぎなかった。1945年8月17日、すなわち日本が投降を宣布してから二日目に、華商証券取引所で199種の上場株券のなかでただ2つだけ取引が成立、この日がこの取引所の最後の取引となった。
 抗戦勝利後、上海華商証券取引所は汪精衛偽政府の支持を受けていたとして、国民党政府により敵資産として接収された。このとき正規の証券取引所は存在しなかったが、ブラックマーケットはとても盛んで、新聞もまた各種の相場情報を掲載した。1946年5月、国民党政府は通貨膨張を抑制し、工商業の発展を促進し、遊休資金を証券市場に導こうと、上海証券取引所の回復を決定した。9月9日、上海証券取引所は正式にオープンした。新規開業の取引所は漢口路に改築後のもと証券ビル(大楼)に置かれた。ビルの1階には株券取引市場が占めた。場内は完全に米国式設計で設備され、敷設された電話は230台あまり。ブローカーの対外連絡用とされた。そのほか2階には見学者コーナーが設けられ、見学者は高いところからビル1階の株券市場を直接俯瞰できた。取引所開業後、二十余種の批准された華商企業株券が上場売買されたが、間もなく場内取引は場外取引に追い越された。もともと場外取引は場内取引の3割の保証金が必要なだけで、しかも精算時もし売り方が株券を出さないときは、転期が可能で、支払いは買い方が差額を払うこともできる、場内取引と比べて、場外取引の利潤は高く機動性も強い。外商企業の株券は取引所で正式に上場はできなかったが、ブラックマーケットでは頭角を現していた。怡和紗厰,英聯船塢,會德豐公司など外商企業の株券は、標準p.78   価格が香港ドルを単位とし、その像場と香港の為替が直接つながるもので、投機者にとり見栄えが良かったので、価格はうなぎのぼりだった。株券価格は高騰し、物価もそれにつられて上がった。一部の市民は市参事会に手紙を書いて、非合法の場外取引が物価 高騰の原因だと非難し、政府当局に粛清を求めた。1948年8月、国民党政府は幣制改革実行を宣布し、金圓券を発行すると同時に、上海証券取引所に業務停止(停業)を命じた。
 1949年1月、上海証券取引所ブローカー(經紀人)公会の申請を受けて、国民党政府はまた上海証券取引所の再開(復業)を批准した。崩壊に向かいつつあった国統区の経済に一針強心剤になることを期待して。しかし国民党軍隊が戦場において次々に敗退、人民解放軍が揚子江に面している形勢。多くの資本家、商人は次々に資金を南方あるいは香港に移していた。一部の投機者は株券から金、銀元そして米ドルに関心を移していた。それ故に再開後の取引所の営業は平常(平淡)そのものであり、上海解放の前日夕方、再び業務停止を宣言せざるを得ず、(ここに)近代証券市場発展の歴史を終えたのである。

新中国建国以前中国金融史

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