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上野恩賜公園の銅像から

 上野恩賜公園の銅像から二体について述べたい。一つは西郷隆盛像である。銅像は通常、その人を顕彰する目的でつくる。また、その像が後世に残り人前に触れるわけだから、そのいでたちも問題になる。だからこそ多くの像は正装で作られている。
 西郷隆盛像はその意味で異例である。着物を一枚羽織っただけの姿。わらじ履き。短刀を左手で帯刀するものの、右手は犬を連れており、直ぐに抜刀できない。平服の無防備な姿。西郷隆盛(1828-1877)は、明治維新で多大な武功がありながら、征韓論(李氏朝鮮が明治維新後の国交交渉に応じないことを非礼として強硬な対応を主張する議論)をめぐる対立で野に下り(明治6年1873年の政変)、西南の役(明治10年1877年)で反乱軍を率いて、明治政府に異を唱えた人物。しかしその後、恩赦された(明治22年1889年)。
 明治22年の大赦を受けて西郷像建立の運動が起き、明治31年1898年12月除幕。西郷像は高村光雲(1852~1934)の作。ただし、犬は後藤貞行の作とされる。西郷像を上野の山に設置するにあたり、像の造形が徹底して政治性を排することが求められたことは容易に想像できる。その結果としての平服わらじ履きの西郷隆盛像は親しみやすい像になり、渋谷の「忠犬ハチ公像」とともに、人々が集まる銅像になり、西郷人気を支えるのに役立ったように思える。

 上野恩賜公園の銅像として小松宮彰仁(あきひと)親王(1846-1903)像を次に見ておきたい。この像は、上野動物園に入る手前左側の小高いところにある。この人は、天皇家の縁戚である伏見宮邦家親王の子供として生まれ、仁孝天皇の猶子とされて親王(皇族)になった人である。そしていわば天皇の名代として、鳥羽伏見の戦い(慶應4年1868年1月)、戊辰戦争(明治元年1868年-明治2年1869年)、佐賀の乱(明治7年1874年)、西南戦争(明治10年1877年)に転戦し、武功を立てた功績を評価された人らしい。 小松宮彰仁親王の葬儀は国葬で行われており、この親王像は明治45年1912年に建立されている。
 立派な軍服姿の馬上の銅像であるが、この像を顧みる人が今日ほとんどいないのは少し気の毒ではある。威厳を示す軍服姿は、近寄ることを拒否しているようにも見える。平服姿の西郷隆盛像と対照的かもしれない。西郷像が平服姿であることは、逆に西郷の人気を高め、他方、威厳に満ちた小松宮彰仁親王像は、赤十字活動に長く貢献があった親王を庶民とは縁遠い存在にしているのかもしれない。


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